Makuma tani ( テテ州のNhemgua 語;元気ですか?朝のあいさつ)!
テテ州の出張で新たな生活に関する発見がありました。日本人は、備えて蓄える、働くという感覚がそもそも備わっているように思いますが、モザンビーク人は今、以外は何も見ていない、考えていない。とでも言える行動が多いです。そんな中で農村での計画性も垣間見て、貧困についても考えるきっかけとなりました。
「節約方法を学んでお金が貯まるようになった。とても興味深かった。ただ、隣の子どもが病院に行く、学校の用意が必要…結局自分の家族より困っていることは起こるから自分のために使えるお金はなくなる。」これは、ナンプラ州のコミュニティでプロジェクトについての感想を伺ったときのこと。家族の範囲の感覚が広い、助け合うことが前提で生きているというべきか、自分が明日必要なお金は気にしていないというべきか・・・
お金が貯まらない理由は人を助けているからだけではありません。友達にパンのおつかいを頼んだら、勝手におつりを使い切り、ジュース(こっちでは結構高級)も買ってきて、「おつりに自分が少しお金を足したら、ジュースをプレゼントできることに気づいた。きっと喜ぶと思ったから」と。単なる欲でジュースを買ってきたと思った私としては、「泥棒と一緒じゃないか!?」くらいの勢いで腹を立てたけれど、逆に相手としても、せっかく朝ごはんをより楽しもうと思って、なけなしのお金をかけたのに、何で怒られているんだ?と腹を立てました。話し合っているうちに、あぁ、モザンビーク人にとって、誰がお金を払っているか、いくらなのか、明日お金が残っているか、ではなく、やっぱり「今」が大切なんだ、と気づき、最終的には私が反省することに。
かと思えば、テテ州のコミニュティで話を聞くと、計画性のある暮らしぶりでした。テテ州はダムがあるため電気も水も通すことができるし、動物の家畜も盛んで、物価も高いです。そんな中で農家さんの暮らしは、簡単ではありません。もちろん電気も水も通す余裕はありません。それでも、収入が上がる収穫期は週3日くらいはヤギや鶏を食べることもあるんだとか(モザンビークの農村部に暮らす人は一般的な動物性食品を積極的に食べる地域は少ないです。虫やネズミは食べます。)。誰かが屠殺すると、お隣さん同士で買い合ったり、お金の持ち具合では現金の代わりに畑に働きに行くそうです。収穫期の収量が明らかに少なく、1年を通して主食のキビやヒエが食べられないことが分かると、山に木炭を作りに行って、飢えないようにする、それがこの土地の暮らしだと教わりました。今しか見ていないと思いきや、そうではない。お金がなくても、他の方法がある。私たちがその違いに目を向けていないだけ。なぜ、世界の貧困がなくならないの?そもそも貧困って何?答えはあるんでしょうか?