164号(2015.3&4)」カテゴリーアーカイブ

緊急特集 ジャーナリスト・久保田弘信さん講演会「イスラム国」人質事件と日本のゆくえ

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回のを受けて

後藤さんは非常に優しい方で、取材のテーマがぼくと似ているんですね。戦争の中で非難民として生きる子どもたち、大変な思いをして暮らす家族、そういった人々に焦点を当てる。僕たちジャーナリストにとって、一番の喜びは「伝えること」、「知ってみなさんに考えてもらうこと」なんですが、メディアが扱う情報はどこか偏っています。取材をして帰国して、日本のメディアに使ってもらおうとしても、「うーん」といって使ってくれないんですね。日本のメディアは非常にセンセーショナルな映像を求めます。

昨年末に僕は遺書を残してイラクの最前線に行きました。「なにかあったときには僕の責任。ですからイラクの人を恨まないで下さい。二国間の関係がこじれるのが一番困ります。」と。後藤さんは最後シリアに行かれる前にビデオメッセージを残されました。『もし自分の身になにかあっても、シリアの人を恨まないで下さい』と。にもかかわらず、日本の首相はなんと言ったか。『罪を償わせる!』。何でそういう強固な言い方をするのかなと。間違いなく後藤さんはそのことばを望んでいないと思う。日本の首相がそういう発言をする中で、世界中のメディア、世界中の人々が「日本って右傾化しはじめたんだな」、というのを感じています。

このままでいいのか、それは僕が決めることではありません.僕は現地で撮ってきた情報をみなさんにお伝えして、こんなふうに日本って思われていますよ、そんな中で、このまま安倍首相が行っている「積極的平和外交」という方法に行くのかそれとも平和憲法を大事にしていくのかって、実は僕たち日本人が一人ひとりが考えなきゃならない時期に来たと思う。今までは「9条を守る」、「日本の平和外交をどういうふうにしていくか」ということは日本国内の問題だった。そのことを今は世界中が注目しています。日本は大きな分岐点に来たんだと海外のメディアが伝えていますし、海外の人たちは思っています。

人質事件に関して

安倍政権に対する批判もありますが、非常に残念なのは、またもや出ました「自己責任論」。イギリスのBBC系列のニュースペーパーで、日本は自国民になにかあると、行ったやつが悪いという国なんだ、と書かれていました。もちろん、湯川さんにいろいろ問題があったかもしれない、後藤さんも危険を承知で行ったのかもしれない。でも自分たちの国民が、第3国の人に殺されたときに、「行った本人が悪い!?」これ、日本独特の文化なんですね。危険を承知でやったんだから、死んでも仕方がないんじゃないか。こういう考え方をする日本は、ハイリスク・ローリターンを覚悟の上、自費で戦場に赴き、内情を取材する僕らジャーナリストにとって、非常にやりにくい国です。フランスのジャーナリストが、イスラム国ISISに拘束されて、無事帰って来たときには、英雄扱いでした。かたや日本では帰って来た本人が最初なんて言いますか?「ごめんなさい。ご迷惑かけて申し訳ありません」そこが違うと思うんですね。

イスラム圏は危険か?

今日も、各新聞社やテレビ局の方が大勢いらっしゃいました。インタビューを受けたときに「中東、それからイスラム圏の危険ってなんですか?」って聞かれたんですね。今回のニュースをきっかけに中東とかイスラムの国が危険だって言うふうに、なんか一面的に日本が伝えてしまっているところがある。
確かに危険はあります。政情が不安定な国ですし、問題は多々あるんですけど、僕たちは中東の国々のことをどれだけ知っているかって言うと、かなり知らない人が多いんですね。反面、日本という国は世界中から知られています。
で、今回の件があって、中東のことに少し思いを寄せる。イラクとシリアの間にはややこしい問題があり、イスラム国っていう新しい勢力がいるんだ、かつて戦争があったイラクってもう十年以上経っているが、その戦争後、どういう治安でどういう暮らしをしているんだろう、シリア内戦が起こった?シリアってどういう国なのか…僕たち知らないんですね。何か事件が起こって、その事件をきっかけに伝えられるだけで、その国の国民性とか、全然伝わってない。
イラクの人、シリアの人、それからトルコの人、ヨルダンの人、みんなが、日本のことよく知ってます。よく思っています。戦後、たった70年弱のあいだにここまで「復興した国」、もう1つは「戦争を放棄した国」って。特に今まで、イスラム圏との戦争に関わって来なかったということで、中東の人たちは、日本のことを非常によく思ってくれてます。僕らジャーナリストは肌でそれを感じているんです。

僕たちは中東を知らない。

後藤さんの死をきっかけにこれだけの人が集まってもらって、中東のことに思いを寄せてもらったら、この会の初めにしていただいた黙祷よりも彼は喜んでるんじゃないかと思うんです。いつ僕もそういう立場になるかわかりません。毎回覚悟しています。そのときに黙祷してもらったらうれしいです。でも、それ以上に僕が今まで伝えたいと思ったことを残された人たちが知ってくれたら、それが一番うれしいですね。  (文責・にらめっこ)

中東諸国の歴史ー①/6  1年かけて勉強しよう!

02中東諸国では、なぜここでこんなに戦争が起こっているのでしょうか?それは、「石油」という利権と、「宗教」 による対立があるから。特に 「石油」が大きなポイントで、この利権を得るために中東以外の諸外国も積極的にこの地域に関わってきました。
また、「宗教」による対立があるために、双方が利益や損失を考えて和平をする、といった事もなくなってしまいます。
そこへ来て、「イスラエル」という全く違う宗教と民族の国がポンと出来て、ますますゴタゴタになってしまいます。

元々、「中東」 の一帯には 「オスマン・トルコ帝国」 という名のデカい帝国がありました。言うなればこの帝国が中東地域を 「天下統一」 していた訳で、一時は東ヨーロッパから北アフリカまでその支配地域を延ばしていました。
同じ頃、ヨーロッパでは「大航海時代」 が訪れた。オスマン・トルコ帝国が中東地域を完全に制圧してしまったため、「陸がダメなら海だ!」 というワケです。

1500 年前後、日本がちょうど戦国時代だった頃。「ポルトガル」 「スペイン(イスパニア)」 「イギリス」 「オランダ」 などの国々が、まだ見ぬ世界を探求するために船を出し、貿易船と、それを襲う海賊と、海賊を倒す艦隊が入り乱れていました。コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは1492年ですね。
1600 年頃、大航海時代は 「探検の時代」 から 「支配の時代」 へと移っていく。探検航海によって世界の姿が解って来ると、その新しい世界を支配しようと、列強国が互いに争いを始めるようになります。ヨーロッパの軍隊は最新の武器で武装していますから、世界の国々をガンガン占領していきます。
こうして、その地域の住民の事など無視した 「領土の取り合い合戦」 が起こる事になります。このヨーロッパの強国が世界中の国々を 「植民地支配」 していく事が、その後の世界の歴史に大きく影響する事となります・・・(次号へつづく)


新米Nurseものがたり-(Vol.26)

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最初は、家でベッドから座っていた姿勢からすべりおちて大腿骨の骨折で入院した。手術後何日もたって、意識がなくなりICUに運ばれた。バイタルがかなり安定してるためにうちらの病棟に。でも、両足はもうすでに脈が無く、かすかな血流によって保たれている状態だった。血管の専門医も現時点での外科的な処置は、患者の生命の危険がともなうという判断で処置はなされず。そのかわりに薬の投与で塞栓や血栓が肺や脳をつまらせないようにする処置がとられた。意識もないため、食事は鼻からの経管栄養で投与されてた。
両腕は浮腫でむくみ、血液検査や点滴針をさすのが難しいために何度も針でさされてあざだらけだった。その痛々しい腕からは体液が常にしみ出る状態だった。両足は壊死さえ起こしてないものの氷のように冷たく紫がかった色をしていた。
まったく意識がない、つねってもゆすっても反応しない。瞳孔がおっきくなって動かないようにみえた。どうしちゃったんだ、何が起こったんだ、脳が機能してないのか…。

そんな状態でも、血液検査やものすごい量の薬の投与、4時間おきの鼻から胃にはいるチューブでの水分補給など、もう拷問に思えるくらいいろんなことをしなきゃいけなかった。この人は意識がない状態で、こういうことを望んでいるんだろうか。元のように意識が戻って、おかゆを食べたり家族とわずかでも会話ができるようになるんだろうか。
医者たちは誰もが口をそろえて早急に緩和ケアかホスピスに切り替えるといった。
前日、家族のヘルスケアプロキシ―(本人が判断できない状態のときに本人に代わってすべての医療ケアにかかわる決定をする人)と家族を交えてミーティングをした際に、DNR/DNI(心肺停止の時に挿管を含む蘇生をしないこと)が決まった。でも、緩和ケアのみにするか、ホスピスに切り替えるまでは、やはり延命をするために心肺蘇生以外のことは全部なされる。
それは、たぶん本人にとっても家族にとってもケアする側にとっても苦痛だと思う。

3日後には、経管栄養も外れて薬の数も最小限になってた。
ところが、家族がやってきて、「なんで食べ物を与えない?アイスクリームでもゼリーでもいいから食べさせろ。このまま餓死させたくない、点滴も辞めて、いったいどうゆうつもりだ!」と言ってきた。しかし、本人は意識がなく飲み込めないから食べさせることはできない。今の状態で無理やり口に何か入れたら、誤嚥性の肺炎になることは間違いない。
ケースバイケースだけど、基本的に緩和ケアやホスピスは延命につながることはしない。でも中国の人達は、文化的に食に対する意識がかなり強いといつも感じる。
ホスピス病棟でも、食べるたびに吐いて、食べるたびにおなかの張りを訴える中国人の患者さんに、それでも家族はひたすらおかゆを食べさせていた。吐く=体が受け付けない、意識がない=食べられない、ということではないのか。点滴も体が受け付けなければ、すぐに肺に影響がでて浮腫ができてくる。それでも、ちょっとでもいいから点滴で水分補給を!という家族は多い。前はそれもわかるような気がしてたけど…。

でも、最近は乾いていくという過程も死にゆくことのなかで自然なことなのではないかと思う。年をとるほど、肌はハリがなくなり、だんだん軽くなっていくのは、自然なことだと思う。軽い方が骨や関節に負担が少なくなるしね。死が近づいているとき、体が乾いていくのは、やっぱり自然なことだと思う。

人は何も食べたり飲んだりできなければ、死ぬ。それはとても自然なこと。人間に限らず、どんな生き物でもそう。生き続けるということは簡単なことではない。どんな環境にすむ生き物でも自分の命を保持するための栄養補給と水分補給ができなくなったら死ぬ。自分で生きる力が無くなった時、命は死ぬ。
それが医療の進歩のおかげで、昔なら助からない命も助かるようになってきた。食べるという行為なしに、胃や血管に直接、生命が維持できる栄養を届けることができるようになった。
これは奇跡のようであり、奇妙な現実でもあるとうちは思う。

森や草原や砂漠に住む哺乳類は、生まれた瞬間に母親の母乳を飲める力がなければ、死ぬ。でも人間の赤ちゃんは未熟児で生まれて母親のお乳を飲む力がなくても、みんながみんな死ぬわけではない。とくに先進国やNICUや他医療が整っていればいるほど生存率は高くなる。それは素晴らしいこと。ただそれがどんな命にも使われるべきかというと、そうでもないと思う。赤ちゃんは、その時期をのりこえるとたいてい自発呼吸、自分でお乳を飲んだり、自分で生命を維持していけるようになる。
それが、自分自身で生命を維持できる力の回復が見込めない人や、死が近い人に使われると、本人にとっても家族にとっても辛い時期が続く。何のための延命で、何のための栄養で、何のための医療なのか。本人のためなのか、家族のためなのか、そこにエゴはないのか。

命は死ぬ運命と一緒に誕生する。生まれれば死ぬ。そこに永遠はないし、きまった時間もない。
どんなふうに生きたいか、どんなふうに逝きたいか、どんなふうに生きてほしいか、逝ってほしいか、不吉とか暗いとかって毛嫌いせずに、普段から話しておくのはすごい大事だと思う。

 

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記者雑感 From気仙沼-(Vol.17)

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02 津波で廃校になった小学校跡地に市内初の災害公営住宅が完成し、1月31日に入居が始まった。あの日から1422日。「1日、1日、待っていた。でもまだ多くの人が仮設住宅にいるから、自分だけ喜んではいられない」。佐藤淑枝さん(72)は語った。
岩手県一関市の仮設住宅から引っ越したのは佐藤さい子さん(67)。独居で車を持たない佐藤さんは、古里を離れた仮設でも駅や店に近い方がいいと考えた。ところが住み始めた直後に腰を傷めて思うように歩けず、買い物にも行けない。そんな折、気仙沼市のスーパーが仮設巡回バスの運行を始めた。佐藤さんの所は週2回。店の軒先まで連れて行ってくれるし、道路が凍っても休まない。今では体がかなり回復した佐藤さんだが、「本当に助かる」と転居直前まで利用した。
スーパー近くの飲み屋で2年ほど前、潜水士の藤代隆久さん(42)と知り合った。どんな仕事か知りたくて昨年末、津波で壊れた岩手県宮古市の防波堤復旧現場にお邪魔した。大きなコンクリートブロックが隙間なく並ぶようクレーンを海中で誘導し、海底に着けばブロックを釣っていたワイヤーを工具で外す。これを繰り返して新しい防波堤ができる。藤代さんの姿は私の乗る船からは見えない。船上のスピーカーから、「ゼー、ハー」という呼吸音が聞こえる。「ああ、藤代さんは生きている」。なぜかそんなことを思った。
暮らしと復興を支える仕事は、買い物バスや潜水士以外にも多い。税別280円にもかかわらず、大口の工事現場に限って配達を始めた弁当屋もある。経営者の鈴木恒子さん(67)に会うと、「弁当より子どもの話を」と頼まれた。子ども劇団「うを座」。学芸会は勘弁して欲しいと思いつつ、稽古を覗いてみた。
大津波警報を伝える無線とサイレン。「いやあーっ」。幼なじみが目の前で津波にのまれた姉の実体験を高校2年の鈴木菜々さん(16)が演じる。高校3年の畠山沙樹さん(18)は、同居していた祖父が行方不明のままだ。仲間の船が無事か、港に見に行ったという。畠山さんは語りかける。「ほかの人のこと心配すんのは、すごくいいことだと思う。でも自分の命ぐらい何より大事にしてもいがったんではねえがな。4年もたつし、はやぐけえってこいや、みんな待ってっからさ」。
恐れ入った。辛い体験の再現に終わらず、「世界の支援を受けた私たちだからこそ、世界の子どもに目を向けよう」というメッセージを発する後半も圧巻だ。震災前はあまり感情を表に出さなかった畠山さん。たくさん泣いているうちに、笑ったり、怒ったりするようにもなった。声優を目指して、今春、関東の専門学校に進む。

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“天然のくらし”応援団 第1回は「農薬について」

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日常生活になじんでいる 殺虫剤、蚊取り線香なども農薬です!

発達障害とはどういう意味でしょう?胎児期や幼児期の脳機能の発達の障害で、その現れ方により注意欠陥多動性障害や自閉症スペクトラム、学習障害などとよばれます。
原因は遺伝とか子どもの育て方とかいわれたした。しかし、科学の進歩につれて環境の影響が大きいと分かりました。昨年11月9日、発達障害と環境との関係についての黒田洋一郎博士の講演会が各務原市でありました。環境中の水銀などの重金属や有機リンなどの農薬、ダイオキシンのような残留性有機汚染物質などが脳発達に影響し、安全な殺虫剤と宣伝されているネオニコチノイドも神経細胞に影響を与えることを説明しました。農薬などの環境汚染物質は発達障害と深い関係があります。
日本の農薬使用料は世界で2番目に多い!
「アメリカの農薬使用は多い」という人がいます。これは誤解です。経済協力機構OECDによると、日本の農薬使用量は長い間OECD加盟国で1番多かったのですが、最近の調査は韓国が1番で、日本が2番です。米国の農業は出費をできるだけ避け、防除が必要なほどの虫がいななければ殺虫剤を使いません。日本では虫などの発生を予想し、年間の防除予定を組み、防除が必要なほど虫がいなくとも散布することがあります。この結果、日本の農薬使用重量は単位面積あたりアメリカの約17倍です。この他に日本では農薬に分類しない「除草剤」なども民家近くで使われています。

アメリカの国立環境衛生研究所が昨年10月に発行した雑誌に、「神経発達障害と誕生前に農薬近く近く住むこと」という論文が発表されました。この論文は母親が妊娠中に有機リン殺虫剤を使用する農場の1.5キロメートル以内に住むと、子どもが自閉症スペクトラムになる可能性が60%増え、妊娠後期に住むと可能性は2倍になると報告しました。ピレスロイド殺虫剤(蚊取り線香によく使われる殺虫剤類)との関係も報告されています。
除草剤も心配です。今年1月、エポック・タイムズ紙に、よく使われている除草剤グリホサートは自閉症を起こすだろうという記事が出ました。結果は確定したものではありませんが、妊娠中や幼いお子さんをお持ちの方は、除草を考えるとき思い出してください。
このように最近の研究は発達障害は環境の汚染と強い関係があると次々に明らかにしています。脳は神経系の一部です。神経に影響するような殺虫剤は警戒しましょう。除草剤も安心できません。室内でゴキブリ駆除剤や蚊取り線香を安易に使うのは考え直しましょう。子どもや自分達の健やかな明日のためです。

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中高生・平和を語る

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今回は、今年1月大垣のようこそ先輩グループ主催で行われたワールドカフェ「どうしてカンボジアの子どもたちは目が輝いているの?」に参加して学んだこと、考えたことを紹介しようと思います。
この企画は、大垣のメンバーでわたしの友だちでもあるうきちゃんが、高校でカンボジアについて学んでいく中で、子どもたちが生き生きと目を輝かせて勉強しているのを見て驚き、「みんなと、カンボジアと日本の子どもや学校について考えてみたい」と提案したことからはじまっています。

 

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世界のほとんどの国には義務教育制度があります。ただし、その考え方には特定の年齢の間を義務教育の対象にする年齢主義と、特定の課程を終了するまでを義務教育の対象にする課程主義の2つがあり、私たちの国の義務教育は年齢主義を、カンボジアは課程主義を取っています。
どちらの国も義務教育の間は義務なので、親は子どもを学校に通わせなければなりません。でもカンボジアの場合、ポル・ポト政権時代※に学校教育が廃止され、学校は軍の基地や刑務所として使用されるなどして破壊されてしまいました。教員は知識人と見なされ、小学校教員の8割は殺されました。また焚書政策によってカンボジアの大半の書物は失われました。その傷跡は深く、今もなお教育の立て直しが行われています。そのため、カンボジアの子ども達は整っているとは言い難いような環境下で勉強しています。それでも、将来に夢や希望を抱いで毎日勉学に励んでいます。
就学率は小学校では90%を超えますが、卒業できるのはそのうちの半分です。カンボジアでは退学率、留年率が非常に高くなっています。家庭が貧しいため家の手伝いをしなくてはならず、学校へ続けて通うことができません。地方は、都市部と比べ学校数も教員数も極端に足りていません。そのため、地方に住んでいる子どもは都市の学校まで通わなければならないのですが、それができないといった事が起こります。そのような理由で、退学率・留年率は上がってしまいます。
カンボジアには、本当は勉強したいのにできない子ども達が沢山いるという現状があります。ワールドカフェでは、「カンボジアの子どもの目はどうして輝いているのか?」「理想の教育とは?」「どんな学校に通いたいか?」という3つのテーマでメンバーを替えながら話し合ったのですが、その中で出てきた「知らなかったことを自分で見つけた時に目が輝く」という意見が印象に残りました。私たちは、整った環境で義務教育を受け、卒業できるのが当たり前で、本当に目を輝かせて授業を受けてきたかと言えば疑問です。それが、カンボジアの子ども達には保障されていません。カンボジアでも、たくさんの人が学校に行けるようになればいいのになぁ…と考えました。学校に行くことによって世界への視野も広がり、たくさんの夢に出会うことができるようになるのではないかと考えました。
私たちの国は戦後70年、一度も戦争で人を殺さず、そして殺されずにやってきました。その間にたくさんの難題があったと思うのですが、しっかりとした教育を受けて、それを乗り越えたからこそ今の平和な日本があると私は思います。
この平和な日本が続くよう、私は願います。

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エコビレッジ from オーストラリア

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昨年の12月21日はオーストラリアでは夏至にあたる日。季節の切り替わりのお祝いを込めて、party for the new paradigm(新しい形式でのイベント:意訳)というイベントを開催しました。
02このイベントの基本コンセプトは、ギフト。ギブ&テイクではなく、ギフトです。この考えをシェアし、実践して、体験を共有する事です。特徴は、参加者全員で共に作り上げるというところ。入場料はなし。その代わりに参加者は自分のギフトを持ち寄ります。今回は、事前に申し込みをしてもらい、なにをギフトするのかはっきりと伝えてもらうことにしたので、色々な形での参加とギフトが集まりました。

イベントに興味を持ちながらも、自分がなにをしたらいいのか解らない人は、ボランティアというかたちで参加してくれました。そして、このイベントの主旨を理解し、なんらかの形でのギフトを受け取り、自分もギフトをしたい、もっと積極的に参加したいと思って、再び来てくれる人たちがいました。たくさんのアート、ミュージック、ワークショップ、パフォーマンス、マッサージ、トーク、ご飯、そしてたくさんの笑顔と愛、様々な形での刺激を受けとてもいい経験になりました。

今回は2回目なので準備にも気合いが入りました。クルーの役割分担を明確にして、どうしたらチームワークがうまく機能するかが一つの課題でした。一つのイベントを作り上げる過程は、コミュニティー03(協働生活)にはとてもいいレッスンとなります。いかに、サポートしあえるか、各自が自分の役割を見つけられるようになる訓練にもなり、知恵を分ちあい、連帯感を築くいい機会となりました。それは、自分は人の為に何ができるのか、自分自身と向き合う機会となり、ほかの人は何が出来るのかを知ることができたからです。

それぞれのスキルを共有できるという事は、つぎは一緒にやってみようという意識が生まれます。連帯意識ががどんどん広がっていくことで、お互いを高め合うことにつながると思います。
私のできることは、「絵を通して表現をする事」なので、日本からこの期間に遊びに来てくれた、絵描きの友達と二人でライブペイントを披露しました。
人と絵を通してコミュニケーションをとるというのは、普段使わない感覚を使うのだなと体感しました。

こういった主旨のイベントは、めずらしいので理解するのに時間がかかる人もいます。物々交換でもなく、お金を払わなくてもよくって、ギブ&テイクでもない・・・「ギフトのみ」。それがどんなに楽しくて、自由な感覚なのかを分かち合い、これをいろんなところで実現可能にするために、いっしょにつながろう!とイベント参加者との絆も生まれました。その絆がわたしたちクルーを勇気づけてくれて、次なる熱意にもなりました。

さて写真はイベントの様子と、最近のパラダイスの畑の様子です。今は夏真っ盛り。亜熱帯気候特有の雨期でもあるため、今年は雨が頻繁に降ってくれて、畑の作物は順調に育っています。オクラ、ピーマン、ケール、キュウリ、ズッキーニ、スイカ、緑の夏野菜たちが私たちに収穫の喜びを与えてくれてます。
be happy YAO

 

 


カタコトの部屋 自然派ママたちの座談会「トイレトレーニング」

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悲喜こもごも、トイレ・トレーニング

Aさん:4男は生後3ヶ月からおむつなし育児(※)をして
いました。おっぱい飲ませておむつを替える前などにさせるとおしっこもウンチもしていたし、7ヶ月くらいからはおまるでもちゃんとしてたのよ。でも一昨年、8月にすごく暑くて、私がトイレに連れていくのもだるくて、しんどくて、ちょっと休んでいたの。そうしたら、9月に入った時にはもうイヤイヤ!っが始まって…。たった1ヶ月で時期を逸したのかなあ。「トイレ!」って言うから連れて行くと、ちょっと座っただけで、「降りる!」って。それで下ろしたとたんにジャー!したそうにしてるから「トイレ行こうか」って言うと「むーりー!」って…。
02Mさん:そう言う時なのかな?我が出て来たというか。
Aさん:おむつの中でできるなら、そっちの方がいいじゃん、みたいな感じ。漏らすと気持ち悪いように普通のパンツをはかせてみたんだけど、一日に何回も漏らされると洗濯の量も半端なくて、おむつに逆戻りしています。
Mさん:うちの長男の場合、おしっこはすんなりおむつ外せたのに、ウンチだけは4才過ぎてもおむつの中でないとできなかったの。ある日、スーパーに買い物に行った時に、ウンチって言うので、慌ててトイレに行って、4才なのにおむつ交換台の上でおむつに履き替え、そこでう?んってやってたんですよ。そうしたらちょうどそこへ同じくらいの男の子がぱーっとお母さんとおしっこしに来て、「えっ!おむつ?」と言って通り過ぎて出ていったんです。そのときはそのままウンチはしたんですけど、「お母さん、明日から俺、トイレでするわ」って。次の日からトイレでするようになったんです。いやぁ?、どこに何がころがっているかわからんなぁって思って(笑)。
Iさん:過渡期にはいろいろありますよね。うちは1才の終わりだったかな。おしっこ行きたいのに、こちらが声かけると拒否したりということがしょっちゅうで。育児書を見ると怒っちゃダメって書いてあるんだけど、ある程度大きくなったんだから、というのもわかってほしいし、こちらも我慢できないし、ちょくちょく怒ってました。
Mさん:漏らしても、これはしょうがないなと思える時と、いや、そこは!という時とあるよね。
Iさん:本人的にもわかっている時もありますよね。
Aさん:そう。子育ては思うようにはいかないんだよ、と教えてくれてるのかと思えるくらい(笑)。

 

トイレこわい?

Sさん:この子は最近時々教えてくれるようになりました。でも、おまるにいろいろ子どもの興味を惹くようなものがついているので、それで遊んじゃっておしっこをしなくなっちゃった。トイレにいる時間だけが長くなっちゃったの。
Mさん:最近のおまるって、音楽が流れたりすごいんですよね。
Iさん:音楽流れるし、光も出るし!
Sさん:子どもをトイレに誘うためにいろいろついているのかな。
Aさん:そういえば、上の子が小さい頃は、トイレが怖いって言って、よく漏らしていたわ。
Mさん:うちも、「トイレ怖いもん、でっかい穴があいてるし」って。お母さんがしている様子を見せるといいと聞いたから見せたり、足が浮かないように台も買ったし、おまるも買ったけど、結局そこじゃなかったのね。

 

こどもが悪いわけじゃないのよね

Aさん:お兄ちゃんが小学生になってもよく漏らしてて、あまりにもひどかったから病院に連れて行ったの。
Mさん:体の加減でそうなっているんだったら、なんとかしてあげたいもんね。
Aさん:その時は、腎臓にはなんの異常もないから、まあ、時期を待って、って言われたの。結局治まったんだけど。
Mさん:そういうとき、本当に待つしかないね。
Aさん:本に書いてあったんだけど、赤ちゃんは、させればトイレでもおまるでもできるのに、おむつをつけっぱなしにしていて、おむつの中でしなさいと親が教えているんだって。それを今度はトイレでしなさい、と習慣付けさせられるから可哀想だって。あぁ、そうかと思ったよ。
Mさん なるほど、この子にも早速やってみようかな。腰も座ってるから、もうおまるも使えるもんね。やる気に火がつきました。

※おむつなし育児 おむつの中でおしっこやうんちをすることを当たり前にしない育児法。 EC (Elimination Communication = 排泄コミュニケーション)とも言われ、今注目を集めています。日本でも昔から行なわれてきましたが、その智恵が伝承されることなく、途切れてしまっています。なるべくおむつの外でさせるようにすることで、赤ちゃんに気持ちよい排泄を導きます。いわゆるトイレトレーニングではありませんが、おむつが外れやすい傾向はあるようです。

 

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暮らし上手 -医・食 ぐずる子、さわぐ子は食事で変わる!「腸を整えよう」

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化学物質から身を守る「腸脳力」

 

情緒不安定な子どもたちは、加工食品から体内に取りこまれる食品添加物や農薬など、化学合成物資の被害者とも言えるでしょう。そうした、人体にとっては毒性をもった成分によって脳の生理現象が起こり、問題行動につながっていくからです。そんな毒から身を守ってくれているのも、じつは腸なのです。腸の中に食物が次々に運ばれてくると、腸はその栄養分や化学成分をいち早く分析し、すい臓、肝臓、胆のうに命令して、適切な反応をひき起こさせます。
たとえば、タンパク質や脂肪が体に入ってくれば、すい臓に命令してそれを分解してくれる酵素を腸に分泌させます。また、胆のうに指示して胆汁を腸に流し込みます。
また、食物と一緒に有害物質が侵入すれば、腸はこれをいち早く察知して大量の液体を分泌し、強制的に下痢を起こすことで、毒物を体外に排泄してくれます。じつは、下痢は生体の大切な防御反応として、とても重要な働きをしているのです。もし、この働きがなければ、私たち人間はたちまち毒素で中毒を起こして死んでしまうでしょう。
このように、腸は体に必要な物は取り入れ、有害な物は排泄するという善悪を判断する脳のような働きをする驚くべき「腸脳力」を備えているのです。
化学物質から子どもを守るためにも、腸の働きを健全化させておくことが、何よりも大事なのです

 

腸内環境が変われば意識が変わる

 

腸が「考える臓器」であるなら、腸内に入ってくる食べ物の質や量によって、考え方=意識が変わるということになります。
戦後、日本の食生活はカロリーという熱量の大小が中心の考えに重きが置かれ、「たくさん食べる人は健康だ」というような常識がまかり通るようになりました。
近年では肥満や生活習慣病の増加を受けて、量より質のほうが大事だと思う人が多くなりましたが、厚生労働省が「一日30品目を」とすすめてきたようにいろいろな食品をまんべんなく食べても調子が良くない人が大勢いますね。
それは「食物の質」の吟味に誤りがあったからにほかなりません。食物に含まれるビタミンやミネラル、食物繊維や酵素、抗酸化物質といった、ごく微量な栄養素こそが大切であり、それがないとうまく食べ物が燃焼しない不完全燃焼とでもいうべき状態をつくり出してしまいます。
少しの食べ物で元気に活動するためには、「食べものに備わる生命力」という質の吟味が大切になります。食材を選ぶのはお母さんの役割ですから、子どもたちの健康はお母さんの選択支にかかっているといってもよいでしょう。

 

人間はお腹にぬか床を抱えて生きている

おなかの内部には約300種類、100兆個の腸内細菌がいて、なんとその重さは1,5キロにもなるそうです。私たちは、おなかに微生物がたっぷりと含まれているぬか床を抱えて生きているといってもよいでしょう。
ぬか床の管理が悪くなると腐敗してしまい、悪いムシがわき悪臭が立ちこめて不愉快な状況がつくられてしまいますね。それと同じように、腸内が腐敗してくると、人間の意識や気分にも不機嫌な状態がつくられます。その結果、怒りっぽくなったり、過度に不安になったり、落ち込んだりといった精神の不安定な状態に陥りやすくなります。
ぬか漬けといったらきゅうりやなす、かぶやにんじんなどが定番で、肉やたまご、魚や乳製品などの動物性食品をぬか床につけることはありませんね。これはぬか床に入れると腐りやすく、管理が難しい食べ物だからです。
動物性食品の摂取量が多くなるほどに、おなかの腸内細菌の集団にも異常が起きて「悪玉菌」といわれる腐敗菌が増えて、腐敗毒素であるインドールやスカトール、フェノール、硫化水素、アンモニア、アミンなどの硫黄酸化物や窒素酸化物といった有毒成分が腸内で大量発生するのです。こうした「おなかのぬか床の腐敗」を防ぐためには、動物性食品を減らして、野菜や穀物を主体とした食事に変えることです。

 

大切な日々のぬか床管理

 

02おなかのぬか床をじょうずに発酵させるためには、塩の種類が重要なポイントになります。
微量ミネラルを除去した精製塩が市場に出回った当初、漬け物の味が悪くなったため、クレームが殺到したことがありました。そこで、当時の日本専売公社(民営化で現在は日本たばこ産業)は、にがりを含んだ粗塩を漬けもの用の塩としてあらたに売り出したのです。
乳酸菌には天然塩に含まれる微量ミネラルが必要のようで、質のいいぬか床づくりに海水を煮詰
めたり、天日乾燥してつくられて自然な塩を吟味して使うことが大切です。そしてそれは、ぬか床は毎日かき混ぜないと腐敗してしまうので、それが手間だからといって断念する人が多いですね。同様に、人間のおなかのぬか床も、たえず撹拌してあげないと腐ってしまうのです。
でも、人間のおなかの内臓までには手が届きませんね。では、いったいどうしたらよいのでしょう。それにはまず笑うこと。笑いによって横隔膜が振動することで、おなかのぬか床がゆらぎ、ほどよい撹拌 が行われるからです。
実際、「腹を抱えて笑う」ことで免疫力が上がることがわかっていますが、それはおなかのぬか床の発酵状態がよくなるため、といってもよいかもしれません。
ぬか床を冷蔵庫で長期保管しておくと、発酵が止まってしまいますが、それは低温では乳酸菌などの微生物の働きが悪くなるためです。ということは、おなかが冷えている子どもたちは、腸内細菌の働きが悪くなって、食べたものが不消化になり、下痢や軟便、腹痛、アレルギーなどの疾患や、食べても太れないといった体質になりやすいのです。

 

食物の皮が元気なぬか床をつくる

ぬか床には、ときどき米ぬかをあげないと発酵状態が悪くなってしまいます。同様に、おなかにもぬかつきの玄米を入れてあげる必要があります。麦ごはんや雑穀ごはんでもかなりおなかは元気になりますが、やはり、玄米ごはんに含まれるぬかの量はダントツに多いのです。
玄米だけでなく、果物や野菜の皮には亜鉛やカルシウム、マグネシウム、鉄分などの微量ミネラルや、食物繊維、酵素、ポリフェノールといった微生物の栄養となる成分がたくさん含まれていますから、皮ごと食べたいですね。

 

よくかめば、100年もつぬか床に

 

さらにおなかの発酵状態をよくするのが、だ液です。だ液に含まれているアミラーゼが、発酵促進剤として働きます。だから、だ液をたっぷり出したいのですが、ひと口30回以上かめば、だ液の分泌が盛んになり、おなかの腸内細菌の状態がよくなります。
それから、ぬか漬け上手のおばあちゃんから熟成したぬか床をもらってきて、家のぬか床に混ぜると、弱ったぬか床でも発酵状態がよくなります。これと同じように、人間の腸にも伝統製法でつくられたみそや醤油、漬け物や、塩こうじ、玄米甘酒、米あめといった発酵食品を入れてあげれば腸内環境が改善していくのです。
玄米と伝統製法の味噌汁、漬け物をよくかんで食べ、笑って過ごすことで、100年以上もつ丈夫なぬか床を腸内に作り上げましょう。

「ぐずる子、さわぐ子は食事で変わる!」より 岡部賢二・著廣済堂出版 1,200円+税


I’m Challenger 「落語家・正光寺しなのさん」

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 言葉が持つ力

颯一郎は小さい頃から絵本がすごく好きな子でした。私が保育士をしていた関係で、家に絵本がたくさんあったという事もあるかもしれません。自閉症という障がいがあることで、大変なこと、辛いことも多かったんですけど、絵本が好きで助かったこともありました。例えば散歩に出かけて、泣いてそこから離れないとき、やりとりがオウム返しの絵本『わにさんどきっはいしゃさんどきっ』の台詞の「怒っていてもはじまらない」と、私が言うとぶすっとしながらも、「怒っていてもはじまらない」と言い、「もう少しがんばれ」と言うと「もう少しがんばれ」と言って起き上がって、散歩を続けたということがありました。
小学生の頃、日本語で遊ぼうというのがブームになった時に、彼はやっぱりとても言葉が好きなんですね。一番最後に名言集というのがあって、今日の名文というのがあるんです。そこがすごく好きで、それを本に作ったらそれをずっと諳んじるくらいになって。外を歩いているときによく独り言を言うので、菜の花が咲いていたら「菜の花や」と私が言うと「月は東に日は西に」って言ってくれる。で、雲を見て「おーい雲よ」と言うと「どこまで行くんだ」って詩の続きを言ってくれたり。それで本当に穏やかな気持ちになれました。また、親子読書といって親が本を読んで子どもがそこに感想を書く、というのもやりました。続けるうちに颯一郎が読んで、私が書く事になったんです。だんだんと出来事が書かれるようになってきました。最近は彼が日記代わりに書いている、という感じですね。まだ続いているんです。
他にも、バラエティ番組の、いろんな物の単位を言うゲームを、学校からの帰り道に二人でやっていると、そこに下校途中の同級生が混ざってきたりしたこともありました。そんなふうに、言葉で遊ぶという下地はその頃からあったんですね。
颯一郎がゆっくりとした発達だったからこそ、私は毎日のやり取りの中で、絵本の素晴らしさ、言葉の素晴らしさとか、そういうことがはっきりと目に見えて、幸せに感じていたんだと思います。

落語との出会い

中学2年の春でした。お世話になっている方が、颯一郎の独り言を聞いていて、「颯ちゃん、桂枝雀の落語を聞かせてみたらどうかなぁ」って言ってくださいました。それですぐ聞かせてみたんだけど、その時はちっとも好きじゃな
かった。でもその後、テレビの「えほん寄席」という子ども向けの落語を紹介する番組で「んまわし」※という落語にすっごいはまったんです。それでその頃はまだ落語の絵本が出てませんでしたので、番組を録画したものを颯一朗が再生して、私がそのせりふを全部紙に書いて、それを憶えて話し始めたのが落語の始まりです。それから3年間で18席の落語を覚えました。今ではいろんな方の落語のDVDを一緒に見て、颯一郎が特に笑った言葉や仕草を私がメモしておくんです。それを見せながら「どれ入れる?」と聞いて、颯一郎が決めて、落語に盛り込みます。どれも入れられない時もあります。でも、押しつけはしないです。というか、やりたくなければ、絶対やらないですけどね。
その後、小学校の特別支援学級で1、2年を担任してくださった先生に、「うちの子最近落語にハマりだしてね」と話したら、「じゃあ今度うちのお寺でするお盆会でやってみる?」と言ってくださって、初めて落語のお披露目をさせてもらいました。中学2年の夏の事です。
その時の姿は半パン、Tシャツ。手には100円ショップで買った扇子と手ぬぐい。四席させてもらったのですが、コピー落語で、見たまま聞いたままやるので、話す言葉はもう弾丸のようでした。でも、初めて人前で落語をする颯一朗の姿を私は泣きながらビデオに撮っていました。「すごーい!」って。終わった後にその先生と抱き合った事を覚えています。
2回目は、その年の暮れ、同じお寺の除夜会での年越し落語でした。その時、私の父が昔着ていた着物を着て落語をしたんです。そしたらもう全然違う。着物を着せたらこんなに変わるんやって思って。その時から岐阜のリサイクル着物ショップに通って、今では何着もあるんですよ。颯一郎も2年前から働いていますから、今では自分で買うようになりました。嬉しいですね。

颯一郎の落語

中学3年のときの合唱祭でゲスト出演された方が「もう一度あの歌声が聞きたい」っと目に留めてくださったんです。もともと声楽を学びたいという思いはあったんだけど、なかなか障がいのある子どもを教えるという先生がおられなかったので、困っているんですと話したら、ではご紹介しましょうかって言ってくださったんです。そのご縁で篠田弘美先生と出会え、そこから歌のレッスンがはじまり、落語で呼ばれた時にお歌も一緒に歌わせてもらってもいいですか?と、3年程前からは落語とお歌とセットでさせてもらうようになりました。そのときは必ず声楽で教えていただいて、合格が出てから歌わせてもらっています。
そうやって、落語じゃないものがくっついてきたので、もっと颯一郎の面白い所を出してもいいかも、と、電車のアナウンスの真似が上手なので演目に入れてみました。そうしたらお客さんにすごく喜んでもらえたんです。う?ん、面白くなってきたなぁって思いましたね。颯一郎も自分がやる会の名前を「おもしろ会」と名付けました。
最近では、落語の中にそこの会場名を入れるとか、お客さんが笑うのを聞いてから話すということもできるようになりました。前はおかまいなしだったけど、今はお客さんが笑ったら自分も一緒に笑って、それから話し始めるんです。周りの反応を見てするというのは自閉症の人にとっては難しい事なんです。だけど、それができてる、すごいですよね。
最初はね、お客さんも厳しかったですよ。「早口で何言ってるのかわからん」って言われたりもしました。でも、「この前よりおもしろかったよ」「歌がよくなったよ」と言われるようになりました。颯一郎が一生懸命落語をしているので、応援してくださっているのかもしれません。ありがたいことに、3年くらい前にやったところから、まだやってみえますか?と声をかけてもらったりもします。毎年定期的に呼んでくださる所や単発での依頼、併せて年間20回ほどさせていただいています。おかげさまで年々回数が増えてきています。私はよく一番前に座って、誰よりも笑ってるんです。
颯一郎も親の関わりだけではこうはならなかったです。いろんな人が関わってくださって、颯一郎の人生がひろがっていったんですね。多くの人のエッセンスが入って、それで今があるんですね。本当にありがたいと思います。あらためて人の力の素晴らしさを実感しています。                                    (母 直子さん・談)

編集部 颯一郎さん、初めて正光寺で落語をしたときはどんな感じでした?
颯一郎 笑いがとまらなくなるとか。
編集部 颯一郎さん自身も面白かった?
颯一郎 はい。
編集部 どんどんやりたいですか?
颯一郎 はい。

※「んまわし」。「ん」のつくコトバを言って、その中の「ん」の数を競う「んまわし」というコトバあそびの落語。

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