155号(2013.9&10)」カテゴリーアーカイブ

ぎむきょーるーむ・理科・算数・数学に 目覚める本!

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小中学生には「子供の科学」http://www.kodomonokagaku.com/
中高生には「ニュートン」こちらは有名ですね。「相対性理論」とか、意味も分からず言ってみたい年頃に向いています。あとは日経サイエンスです。http://www.nikkei-science.com/ここら辺になってくるとよく言えば飽きさせない、悪く言えば雑多な記事でちょっと大人向けかなとも思いますが。こういったツールを、それとなくそこら辺に置いておくこと。そして子どもがそう言ったことを話してきたときに、ことさら驚いて関心を向けてあげ、「スゴイこと知ってるね-!もっと教えて!!」と言う態度を周りの大人が、特に親が取ることが大切だと思います。
ですが、これらはきっと他の先生方もおすすめされることとおもいます。
「これは出てこないだろう!」と思うものは、ずばり「星新一の小説」です。
緻密かつリアルに作られた近未来が出てきて、薄紙を挟んだすぐ裏側にぞくっと来るような恐怖が潜んでいる。かつ、短編できりっとしていて今どきの読書嫌いの子どもたちにもウケが良い。これほど素晴らしい「理科系への誘い」はないのではないかと思うほどです。圧倒的に人気です。

(開智塾塾長岩田茂明)


記者雑感 From気仙沼-(Vol.8)

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着物を仕立て直した洋服は見事なできばえ。6月に公民館で開かれたファッションショーでは、その珍しさに、観衆は歩くモデルの服を触りまくった。奈良県の服飾デザイナーが昨年5月から月に1回、2カ所の仮設住宅の住民たちに教えた成果だ。この女性は75歳。往復2200キロを1人で運転して通い続けた。昨年10月には気仙沼から戻った翌日、墓地で転落して両手首を骨折。それでも今年3月、気仙沼行脚を再開した。材料の着物は、教室を始める前に、地元奈良の弟子らに提供を呼びかけた。
千枚以上が集まり、女性は通うたびに車で運び、仮設に保管していった。
ショーは盛況だったが、女性はこの1年間に「嫌な物も見た」。教室に参加せず、着物だけを取っていく人。仮設から新築の家に引っ越す時、大量に持ち去った人……。「嫌な物」以外で私が構成した記事は、7月の新聞に載った。すると、仙台市民から「母親の着物を届けたい」と連絡があった。女性に相談したら、「市役所に送って公平に配ってもらえば」とのこと。市の担当者にその旨を伝えたが「市が分けると、『なせあそこだけ』となるから困ります」。

01 多くを失った故か。物欲の強さや自己中心的な考え方に、寂しくなる時がある。6月の市議会で、ある議員が「小泉地区に、いい事業をつけてもらいたい」と要求した。農地でのがれき処理場建設を受け入れた地区の一つだ。様々な薬品や油を扱う処理場だけに、苦悩の末の決断だった。負担を引き受けた農家には感謝している。ただ、処理が終われば耕作できる状態に整備して返す約束だ。「いい事業を」はちょっと虫がいい。市も当然認めない。「では他の地区より優先して復興を」。議員は食い下がるのだった。
災害公営住宅の仮申し込みが始まった。希望者の多い物件は、「特に配慮が必要な世帯」が優先して入居できる。例えば「身体障害者で車いすを使う単身世帯」。私の事務所の隣に住んでいたおばあちゃんは、アパートが取り壊されたので、別のアパートに一人で暮らす。ある時、「私は高齢の独居だから、公営住宅の希望は優先されるわよね」と聞かれた。気持ちは分かるが、健康そのものだし、毎日パチンコに出かけて、居酒屋で晩酌をしているじゃないか。もっと大変な生活をしている人がたくさんいるのに。「調子に乗らない方がいいですよ」と言いたくなった。
本人に悪意はないけれど、もらって当然、いい扱いが当たり前。震災から2年半近く過ぎ、そういう人とそうでない人の差がはっきりしてた。

現役新聞記者(宮城県・気仙沼在住)
私のいる事務所兼住居は、1階の浸水のみですみましたが、3軒隣の警察署も、少し離 れた小学校も解体です。
節電といわずとも、家の周辺は真っ暗。人がいないから…街灯 もいらないわけで……
これから、気仙沼で自分の見たまま感じたままをお届けし


Report-2「農業はとってもクリエイティブ」小田まゆみさん

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01KIYO:どういういきさつでアーティストになったのですか?
まゆみ:3才から絵を描くでしょ、みんな。やめなかっただけですよ。6才の時に描いた絵と、今もなんにも変わらないんですよ。上手だとみんながほめてくれた。
KIYO:それで東京芸大に?
まゆみ:2年浪人しましたよ。工芸科で染色を習った。実は私、大学一年で結婚しちゃったの。夫はアメリカ人で大江健三郎とか三島由紀夫の翻訳をしていた人。それで、大学の時に面白い作家たちに、いっぱいいろんなこと教えてもらった。それからニューヨークに渡った。それが1966年。60年代のアメリカはベトナム戦争の真っ最中で大変な時期でした。私は男の子を生むんですが、だんだんおっぱいが大きくなって、お腹が大きくなって、女の人の力強さを感じ、それで女神を描くようになったんです。それがアメリカですごく受け容れられた。私ね、アーティストっていうのは、社会の望みを無意識的に感じられる人だと思うんです。
KIYO:アメリカでは超有名な人Mayumi Oda。外国人の心には何か特殊な印象を与えるのではないでしょうか?
まゆみ:アメリカというか西洋は、アートと生活は別々なの。日本は生活様式そのものがアートでしょ。だから私なんかの絵なんか要らないんじゃないかと。
KIYO:それはないよ、あなたの絵でぼくは救われている。えっと、それからニューヨークからハワイに移り住むんですよね。
まゆみ:その前にカリフォルニアのグリーンガルチ農場に入ったの。79年の頃から20年近く農業をやり、教えられることがいっぱいだった。1992年に日本が原発にプルトニウム政策に突っ走ったとき六ヶ所村ができた。同時に私は絵をやめて「脱原発・反原発」の運動に10年近く関わったんです。私たちは太陽、風力で分散型のエネルギーになれば原発はいらないと、自然エネルギー推進運動に深く関わりました。そして50歳になって日本で何をやろうか、と思ったとき『わら一本の革命』の著者:福岡先生のところに行った。既に農業をやっていたから、私にとっては神さまみたいな人。種団子を作って、砂漠に撒いて、地球温暖化を止めよう!と本気で思った。そして2011年、ぜったいに事故は起きないという安全神話が3.11の地震であっけなく崩れた…。
KIYO:原発事故のあった後に、僕はすぐ引っ越した。80年代後半から原子力問題に危機感を感じていました。
まゆみ:原発と食べ物。本当に抱き合わせで悪くなっている。私の家族が東京に住んでいたので、家族が安心して食べられるものを作ってあげようと思った。誰かが大変なときには、こうやって生きていたら大丈夫だよ!という事を実践しなきゃと思った。でも私もう72歳でしょ。この年で農業をといってもたいへんですよね。だから若い人を教育しながら一緒に畑をやってもらおうと思ってハワイに6000坪の土地を取得しました。開墾からはじめて1、2年で作物がとれるようになったけど、土作りをして、果物が食べられるまでに11年かかりましたよ。
KIYO:そこをジンジャーヒルファームと名付けた。
まゆみ:ジンジャーヒルだから、ウコンを植えたの。ウコンは肝臓・腎臓にすごくいい。放射能がひどくなったら一番効力がある!と一生懸命ウコンを作りました。そのほか果物、野菜などの食べ物はほとんど自給できるようになりました。
女神というのは女だけじゃない、やさしい利他というか、人のためにやるって、自分が宇宙とひとつだと思ったら、他の人にもよくしなきゃって。そういう気持ちをトレーンニングする。私ね、この世で一番幸せな人は、畑で作って食べられる人だと思うの。だから、食事の前には必ずお祈りをします。
「この食べ物は全宇宙からいただいたもの。大地、海、空、そしてたくさんの人々の労働。それをいただくのに値する人になれますように。私たちの親切な心に変えて、むさぼらない食べ方を学べますように。この食べ物が私たちの力になり、病気から守ってくれますように。理解と愛の道をあるくことができますように。今地球でたくさんの人々が飢えで苦しんでいることを忘れないように、この食事をいただきます」
ちょっと長いんだけど、お祈りしている時間に、食べ物と自分たちの身体が食べ物からできている、それはみんなの労力からできている、ありがたいねと実感できるんです。そして、畑の作業もお祈りしながらするの。
ここのコミュニティーも、在来種のお茶の木をしっかり次世代に残していけるよう、人がつながっていくことを望みます。    (文責・にらめっこ)

 


新米Nurseものがたり-(Vol.17)

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ホスピスの患者さん

バングラディッシュ人の患者さんに”Kill me”って言われた。
殺せないよ、でも逝かしてあげたいと思った。
何もかもがゆっくりすぎて、何もかもが苦しみに満ちている

7月はラマダンの月。ラマダンの間に死ぬと天国へいくそう。それもあってかラマダンが始まってからは、今まで眠くなるから痛み止めや精神安定剤のような薬はいやだって言ってたのに、もっと強い眠くなる薬をくれ、もっともっと痛み止めをくれって言い続けるようになった。やせほそった体は人口栄養がつながれてるせいで、まだその役目を終わることなく、細々と命の維持を続けてる。

ホスピスのソーシャルワーカーが切り出した。
「人口栄養を止めるオプションもあります。もう苦しみ抜いたと思うから自分の感じるままの選択をしてください。これ以上人工栄養で体を生かしていると、あなたの心と体は食い違ったまま。ラマダンの間に逝きたいと願う気持ちもわかります。相談しましょう」

前は本人と家族の意向があって人口栄養を続ける選択をした。でも今はソーシャルワーカーの言葉に彼は何度も何度もうなずいた。本人が人口栄養はもういいと止めたがっている。それを止める=きっとすぐに死がやってくる。

彼は食べることもできないまま7か月間ここまできた。何のために……家族のためだろう…
まだ若い奥さんと13歳と10歳と5歳の娘さん達がいる。
彼女達を前に彼は昨日涙を流してた。5歳の末っ子の女の子の後ろ姿がさみしくて、涙がでた。いたたまれない。

今は3つのチューブにつながれていて本人は何度も全部取り外したいと言ってた。癌のせいで取り外すと、とてつもない苦しみがやってくる。
のどの渇きをいやすために少しでも飲んだりすれば吐いてしまうし、排泄物が逆流するから、ときには便のようなにおいの嘔吐もあって、これは難しい…
本人は自分でおしっこしたくても弱すぎてすぐにベッドから落ちてしまいそうになるために、そのチューブも抜けないまま尿意があっても尿が足せない痛みも避けたい。
今週も何回も何回もベッドから落ちそうになって、うちらは冷や冷やしながら走りっぱなしだった。うつろな表情のまま、彼の心と意志が体の衰弱に関係なく彼を突き動かしてるようにさえみえた。まるで誰かが彼の肉体を乗っ取ってるように…意識があるまま、ゆっくりすぎる彼の最期の時、現実はむごい。

今は一刻も早く楽になってほしいと願う。
あらためて心と体と精神を統一することの大切さを考える。

ホスピス2人目は96歳のおばあちゃん。

脳梗塞で倒れてそのまま意識が戻らず他の病棟からホスピスにきて4日目。毎日今にも死にそうな呼吸をしてた。
案の定、昨日、体位交換に行ったときに呼吸が今にも止まりそうで迷ったけど一応そっと体位変えたら、ため息のようなラストブレス(最後の息)をした。あの最後の息って、なんか本人の意思もあるような、そんなひと息。
人それぞれやけど、「はい、これでおわり。もういいよ、よく頑張った体にお疲れ様…」って言ってるような、なんともいえないため息のような深呼吸のような最期の一息。
ある人にとっては、受け入れの一息なのかもしれない。
このおばあちゃんは「はい、おしまい」ってため息のような息をして、すーっと顔色が白くなった。目の黒い部分は完全におっきくなって、脈も感じられず、心臓の音も肺の音もなかった。胸を強くさすっても動かなかった。眠るようにそのまんま。
こういう死は正直ほっとする。人工呼吸器やいろんな機械につながれていろんな薬を自分の意思と無関係に投与されて…ってなるよりも96年という命をまっとうして、今人間らしく、その時を迎えたんやから。
倒れる前まではおトイレも自分でできて歩くこともできるおばあちゃんだった。だからなおさら倒れて脳が働かなくなってから、亡くなるまでが短くってほっとする。
ただこの患者さん、家族が一度も、亡くなった連絡をしてからも、誰一人こなかったことがちょっとだけさみしかった。

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知的に楽しく学ぶ・遊ぶ・集う Activa

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典型的なガキ大将だった。長良川は絶好の遊び場でもあったし、食糧を得る重要な場所でもあった。17歳で山岳部に入り、毎週山に行った。夜行で行って夜行で帰り即仕事なんて強行軍も平気だった。海外遠征も何度も行った。ヨーロッパのアルプスより、圧倒的にネパールの山が美しいという。
そのネパールで筋田さんは、山中間と学校づくりに取りかかる。若い頃お世話になった恩返しに、と。定年を機に本格的にネパール支援をはじめる。ネパールは国土の80%が山岳地帯。農業、繊維業、観光以外に目立った産業がない貧しい国。「貧困」という環境が教育の遅れを生んでいる。未だに識字率は50%。そんな国に、筋田さんはまず学べる環境を作り、つぎに、親の仕事を探した。そんな支援がもう9年続いている。そして今、筋田さんの心の奥に燃えている次なる支援の形があった。
今年、一ヶ月の予定で一時帰国。一番先に買い求めた[地下足袋2足」これは何を意味しているか。
「『土の学校』知ってる?一握りの土の中には世界の人口と同じくらいのバクテリアがいるんだって。」話題が「山」から「農」へ急展開した。筋田さんの顔が変わる。『ネパールの子どもたちは今日、明日の食べ物を常に探している。イモ類だったり、かぼちゃのつるだったり。ネパールでなんとか野菜、雑穀を作れないものか、思案中。で、考えていても仕方がないので即実践しなきゃ。で、地下足袋を買ったんだ」。
自然栽培の木村秋則さんの本を片っ端から読んで、あの斜面に、あの土にはどんな栽培法がいいのか、と一人わくわくして考えている。その表情はほとんどガキ大将だ。何かを企んでいる顔、とてつもなく大きいこと。日本の食糧自給率も低いことを憂慮して、日本を救うための原点はネパールにあり!と豪語する筋田さんの何という魅力的なことか!私もつい「できることやらせてください!」すかさず「その目で土地を見に来てください。ネパールで待っています」…こういう展開になるとは…こんな出会いが人生を楽しくさせる。感謝。

筋田雅則(すじたまさのり)各務原市出身。
20代半ば、岐阜県山岳連盟のカシミール遠征隊へ招聘。その帰り、初めてネパールへ立ち寄る。その後、ネパールの同宿の山仲間と、「学校づくり」を開始し38校を建設。定年退職後、ネパールへ移住。首都カトマンドゥからバスで40分くらい東のサンガに情報交換の場として銀杏旅館を建設。旅館を運営しながら、ラムチェ村を中心にボランティア活動を行っている。ブログ『ネパール通信」では、ネパールでのボランティア活動報告を通して生きた現地情報を伝ている。

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時間 19:00から21:00(老若男女、経験・年齢不問、できる楽器持参、手ぶら問題なし!)
場所 アートギャラリー是(関市武芸川小知野489) TEL 0575-46-3878

01そもそも「276バンド」の名前の由来は?というと、般若心経のゴスペルバージョンに魅了されたメンバーが「般若心経の文字数は276文字、だよね。ストレートかつシンプル、これに決定!」。しかし、ゴスペルと般若心経。宗教の枠を超えてクロスオーバーな取り組みに異論反論も多々あり。そもそも般若心経とは…膨大な『般若経』600巻の精髄をまとめたもので、字数にしてわずか262 文字の短い経典で、題字を含めて276文字。般若心経…いろいろな解釈があります。アクティバはその意味をしっかり勉強し、理解して上で取り組んでいます。
今年3月18日、楽器をひとつマスターしたい、という声から実現した「パーカッションを楽しむ会」講師にパーカッショニスト・西田氏を招き特訓。音を楽しむことができました。これがきっかけとなり、バンド結成に至るわけですが、仲間が集い、いろいろな話題に花が咲き、その中で一つづつ形にしていく。
アクティバの活動のひとつです。

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Report-1 「自衛隊から国防軍へ…本当にいいの?」半田滋さん

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同盟国アメリカの本音は…
今の時代、冷戦はとっくに終わっているわけで、それほど差し迫った危機はない。冷戦時代にはソ連に対して潜在的驚異といっていました。今の防衛白書には、不安定・不確実要因がまだあると言っている。これは中国、北朝鮮をさしている。では、アメリカはこの状況をどう考えているか?今年の1月、最初の外遊にアメリカを希望した安倍首相は、オバマ大統領からは「多忙」と言って断られた。それでASEAN諸国に行った。2月にやっとオバマ大統領に会えて、安倍さんは歴代首相はじめて「集団的自衛権の行使を考慮している」と言ったのに、「我々にとって大事なのは経済成長を求めることだ」と、オバマさんはそれ以上言及しなかった。その後、韓国のパク大統領はアメリカの議会で演説しました。中金平・中国国家主席はオバマさんと8時間にわたって会談しました。安倍さんは30分ですよ。いかに安倍首相が冷遇されたか!これでほんとに同盟国として日本が大切と思われているんでしょうか?さらに日本は今、中国との間で、尖閣諸島の問題を抱えています。民主党政権から外務大臣がアメリカに「尖閣諸島に関しては日米安保条約の範囲内」と水を向けても、前のクリントン国務長官の時から、「領土問題は二カ国でよく話し合って」さらに「アメリカに迷惑をかけるな」とも言われたんです。

安倍首相のおかしな歴史認識、憲法認識
安倍さんのスローガンは「戦後レジームからの脱却」。戦後体制からの脱却という事は、戦後を作ってきた平和憲法を否定して、軽武装、経済優先で戦後を成長してきた日本を否定するっていう事なんです。憲法が施行されると直ちに教育基本法が作られて平和国家を根付かせるためずっと維持されてきた。しかし彼が最初に言ったのは教育基本法を変えること、国を愛する国民を作ること、でした。つづいて、防衛庁が防衛省に昇格、最後は国民投票法を作った。彼らが作ろうとしているのは戦前のような日本に戻すこと。安倍さんは任期途中で病気を理由に辞任したんですが、再任されて今度は河野談話(朝鮮半島における従軍慰安婦問題に関する反省とお詫びの言葉を述べたもの)・村山談話(過去の植民地支配と侵略戦争に対する痛切な反省とお詫びの言葉を述べた)、これを未来に向けて発信し直すという。今までの日本と違う歴史認識を掲げようと公言しています。
今年、最多168人が春の例大祭で靖国神社を公式参拝しました。そのうち132人が自民党議員。麻生副首相をはじめ閣僚3人も含まれる。このことに対して中国や韓国から批判されると、安倍さんは「どんな脅しにも屈しない」と。でもこのあとに、アメリカのワシントンポストで、「これは日本の危険な兆候」という論文が出るんです。アメリカの議会調査局の報告書のなかでも、安倍さんに対して「右翼の国粋主義者である」といわれた。中国や韓国に対しては強いけどアメリカには弱いんですね。
自民党の政治家の皆さんも、実際に軍隊を持ったこともないし、勇ましいことを言う人にかぎって、靖国には行くけど自衛隊の現場にも来ない。軍務を知らない、軍隊を知らない、そういう人たちが「国防軍を持つべきだ」、「軍法会議はあった方がいい」と主張している。知らないのに何でそんなことが言えるんだろう。

自衛隊の役割とは
自衛隊に入隊した人1年生から3年生までの10人にインタビューさせてもらいました。
「君たちは何で自衛官になりたいの?」8人が「東日本大震災の時自衛隊の活躍をみてあこがれました。」2人が、「自衛隊の平和維持活動を見てあこがれた。」ただの一人も国防のためといった人はいない。実際に今自衛隊は戦争をやったことがない。では何の活動しているか?それは国際活動、それもPKOだけではなく、国際緊急援助隊(スマトラ島の地震・津波、パキスタンの洪水に行って人助け)として活動をしている。
自衛隊が国民の役に立つ、世界の役に立つために何をしたらいいのか、この20年間の間にきちっと積み重ねてきたんです。これを今、根底から覆そうとしている。しかも、国防軍のことはよく分からんけど、歴史認識のことはひっくり返せばいいや、という人たちが集まって。これは何とか阻止しなければ。
この9条の会の活動を通じて、できるだけ多くの方に、日本国憲法の良さ、世界に例を見ない先進的な憲法をもっている日本の良さというものを広めていただきたいと思います。

はんだしげる●自衛隊同行取材などもとづく鋭い記事や論説で知られ、日本ジャーナリスト会議省受賞の『「戦地」派遣…変わる自衛隊』(岩波書店)『3.11後の自衛隊』(岩波ブックレット)などの著書のほか、講演を通じて、改憲動向に警告を発している。


カタコトの部屋 自然派ママたちの座談会「運動会のお弁当」

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– 好評なメニューってありますか?

Aさん:私、車麩のカツをよく入れる。「カツ=勝つ」だから。
Tさん:いいねえ。ボリュームあるけどヘルシーだし。
K さん:実家の母は私が子どもの頃運動会には毎回のり巻きを作ってくれていました。多分酢飯で傷みにくかったからじゃないかな。
K さん:大変じゃない?
Aさん:ううん。一気に巻けちゃうからおむすびを一個一個握るより簡単。前の晩から、かんぴょうやひじきを煮ておいて、朝にその具を酢飯に巻き込めばいいから。結構華やかになるし。できるならお稲荷さんとかもあるといいよね。
K さん:おじいちゃんおばあちゃん来たら喜ぶよね。
Tさん:のり巻きがあるだけですごい豪華に見えない?
一 同:見える、見える!
Aさん:卵焼きもよく作ります。ひじき煮とか入れてオープンオムレツにして、12分割くらいにして、盛りつけるときは立てて入れるときれいに見えるよ。
うちは大きいお重に詰めて持って行くの。それが一番楽だから。一段にはのり巻きとお稲荷さん詰めて、もう一段にさっきのカツとかオムレツとか、おかずをたくさん詰めて。
K さん:お重に入ってると普段とは違って特別な感じがするよね。

– 運動会ということで体調も考えますか?

Aさん:そういうガッツリ頑張っている時は陽性度※が高い時かな。だからお米は玄米ではなく、白米とか7分つきとかにしてます。
Tさん:長男が1年生の時、玄米は栄養価が高くておにぎりだけでもバランスとれてるって聞いたから、玄米のおにぎりしか持って行かなかったの。梨は持って行ったけど、運動会のお弁当なのに梅干しを入れたおにぎりだけ。今思うとあれはちょっとかわいそうだったなぁ。でも文句も言わず食べてくれたけど。
K さん:意外と気にしているのはお母さんだけだったりして。
Aさん:きゅうりの塩漬けもいいですよ。カリウムもナトリウムもあるから。密封容器にキュウリを5cmくらいのスティックに切って塩をまぶしておくと、それがお昼頃には程よく漬かっているの。
Tさん:漬け物みたいでおいしいし、子どももよく食べるよね。塩麹は腐りにくくする作用があるらしいから塩麹でもいいね。
Aさん:あと、ミニトマトは手でつまめるし、入れるときれいだよね。トマトの赤、卵焼きの黄色、カツの茶色、緑はキュウリ、白はごはんがあるし。五色揃うと栄誉バランスもいいって聞いたよ。
K さん:おいしそ~。子どもたち喜ぶでしょ?
Aさん:喜ぶとかより、とにかく腹減った!なの。(笑)
Tさん:なんでもおいしく感じるよね。基本、おいしいものしか持って行かないしね。
Aさん:そうね、この時とばかりに人参のグラッセとか嫌いなもの入れたりしないもんね。(笑)

– みなさん頑張ってますね!

01K さん:うちの子時々預かり保育に行くんだけど、毎回お弁当を持たせているの。まわりはみんな仕出し弁当だから、みんなと同じ物が食べたいって言うかな、と思ったけど、今日もお弁当作ってくれて嬉しいって。みんなと同じのじゃなくてもいいの?って聞いても僕はお弁当の方がいいんだって。そう言われると作りがいがありますよね。

Aさん:去年長男の中体連の時に、市大会、東海大会、全国大会と三回車麩のカツを作ったの。全国大会の前には「僕も一緒に作る、先輩たちに勝ってもらいたいから」て言って、一緒に2時に起きて作ったよ。
Tさん:手料理の持つ力がわかっているんだ!
Aさん:今は運動会でもコンビニ弁当買うとか、仕出し弁当や宅配ピザを頼むとか、学校の近くのカフェに行く人も多いらしいね。大変だから気持ちはわかるけど、以前講演会で、お弁当を作らないってことは、「あなたのために時間をかけてお弁当を作るのなんて嫌」って言ってるのと一緒だって聞いたの。「あなたのために愛も時間もかけられないわ」という無言のメッセージだって。怖いなぁと思って。だから私は絶対作るんだ!
K さん:考えてみれば、おじいちゃんおばあちゃん、兄弟と両親って、みんなが揃って外でお弁当を食べる時って運動会くらいしかないよね。今思うと、自分もあれが最後だったなぁ。

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暮らし上手 -住「ガンジーの思想に学ぶ」

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マハトマ・ガンジーは、非暴力・不服従という平和的なやり方でイギリスからの独立を達成しました。そして、チャップリンやキング牧師に影響を与えた人です。
当時のインドでは、大型機械によって大量生産されたイギリス製の綿布などが入ってきていたため、手工業がすたれ、多くの人々が失業し貧困に陥っていました。そのため、自分たちで棉を育て、糸に紡ぎ、機(はた)織りをして衣類を賄っていく事は重要な意味を持つ事でした。すべての人が食べるものや着るものに不自由しない生活が送れるようになることが、本当の独立であるとガンジーは説きます。
近代化や工業化こそすべての悪の根源であると見抜いていたガンジーは、昔ながらの自給自足的農村社会を再建する事を目指したのです。ガンジーの思想には真実があると私は思うようになりました。
手作業は遅れたことと思えるかもしれませんが、機械化による大量生産に成功したと言われる私たちは本当に幸せでしょうか。今の日本では物があふれるほどあり、食べるものや着るものに不自由している人はほとんどいません。このように豊かな生活ができるのは、工業化に成功したおかげであり、ガンジーの考えた事はあの当時のインドでは正しかったかもしれないが、今の日本にはガンジー思想も糸を紡ぐ道具の手紡ぎ車も必要ではない、とする意見が出てきてもおかしくありません。しかし、本当にそうでしょうか。

◎途上国に暮らして考えたこと

大量生産は天然資源を大量に消費し汚染物質を撒き散らします。さらに、大量廃棄を伴います。それによって地球温暖化、酸性雨、ダイオキシンなどの問題が生じており、地球環境は危機的状況にあると言われています。このような大量生産を続けていく事は不可能です。人々がそのような事に目覚めたからか、大量生産も行きつく所まで行ってしまったからか、物を作っても売れない消費不況と言われる時代になりました。この不況下、大競争時代だと叫ばれ、リストラの嵐が吹き荒れています。このような競争社会は、教育をもゆがめ、多くの人々の心を蝕んでいます。物が大量にあるにもかかわらず、人々は幸せではありません。しかも、私たちの物質的豊かさは途上国の人々の犠牲の上に成り立っています。機械のおかげで、労働から解放されるのはすばらしいことだという幻想がありますが、人手が省かれる分だけ失業者が生じ、失業しないための競争も益々過酷なものとなっていくだけです。糸紡ぎという安定した、立派な仕事を女性たちに提供しようとしたガンジーの取り組みに本当の解決法があるように思えました。

◎生活の原点を大切にする意味

01生活に必要なものを、自分たちの手足を使って生み出していくというのは、決して、庶民が貧しかった江戸時代に戻ることではありません。私が特にガンジーの思想にひかれるのは、食べて着るという生活の原点を大切にしているからです。平和を脅かすのは、軍隊や武器だけではありません。自分たちが何を食べ、何を着るかが世界の人々が平和に暮らしていけるかどうかに密接に関わっているのです。この大切なことを私はガンジーに教えられました。私たちは、日々の生活をおくる上で多くのことを選択しています。朝食にご飯を食べるかパンを食べるかは、本当に些細なことのように思えますが、それによって日本の自給率が大きく変わってくることもまた事実です。些細な日常生活の中に、実は平和で豊かな生活がおくれるかどうかの鍵があるとガンジーは訴えたのでした。そして、スワデシ(国産品愛用)はすべての人の義務であるとガンジーは説きます。お金さえ払えば何を買っても許されるわけではないことに、気付かされました。
ガンジーはただ単にイギリスからの独立を求めていたのではありませんでした。イギリス人を追い払っても、その座をインド人のエリートが占めたのでは何の意味もないからです。イギリス人がいなくなった暁には、近代的工業を取り入れて、都市化したインドを築こうと主張する人々に対して、ガンジーは農村にこそ価値があると訴えます。
豊かな自然そのものが富です。自分たちの畑で作物と棉を育て、衣と食の必需品を自らの労働によって得て行く生き方の中にこそ、本当の自立、本当の豊かさがあるのだと、この事こそガンジーが本当に言いたかったことです。
さらに、多数が利益を得るために少数が犠牲になるのも仕方がないという考えをガンジーは非常に憎んでいました。「競争ではなく、協力こそ人間本来の生き方である」というガンジーの言葉に今こそ耳を傾ける時ではないでしょうか。競争社会を前提に、どうすれば競争に勝ち残れるかを考える前に、どうすれば、競争社会から、人々が協力し合える社会に脱皮できるかを考えるべきではないでしょうか。まじめに働く人なら誰でも生活が保証される社会こそ平和な社会です。ガンジーは50年以上も前にチャルカ(手紡ぎ車)を掲げて私たちの行くべき道を示してくれています。

(片山加世子)


暮らし上手 -医・食「続・腸のおはなし」

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直感力を身につけ世界とつながる

私たちの祖先である初期の脊椎動物は、単純な神経索(神経の束)と消化管(腸)だけで生存していたと言われています。こうした原始生物は人間のように思索することはありませんが、生きている以上何事か感じてはいたはずです。
つまり生物は「頭」ではなく、まず「腸」で感じている。その感情が神経を通じて筋肉に伝わり行為が生まれる。少なくとも原始生物はこのようにして生きているわけです。

生物レベルの「感じる力」のうえに新たな「考える力」が加わった

進化した生物であるならば、本来この2つの力を使いこなせなくてはなりません。「心」や「感情」の先にはさらに曖昧模糊とした意識の世界が控えています。それは「霊」の世界が控えているからです。霊などと言えば、科学や医学の対象ではないと忌避する人もいるかもしれません。が、必ずしもそうとは言えません。この点を無視してしまうと、人がより良く生きていくために不可欠な「直感力」や「人格」の本質が捉えにくくなってしまうからです。健康の定義についてWHOでは「身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態であり、単に病気や虚弱ではないという事ではない」と明記しています。ここでいう「精神的」とは心の状態を指したもので「霊的」という表現とは意味合いが違います。
では「霊」とはいったいなにか?

「心で感じること」と「ひらめくこと」はイコールではない

霊と心の違いがピンとこない人は、両者を「直観」と「感情」という言葉に置き換えてみてください。直観は「外部からの情報をキャッチする」アンテナのようなイメージ。これは「腸に宿っている」と言われる感情(心)とはどこかしら性質が異なっていることがわかるでしょう。
では、アンテナはどこに付いていると考えか?たとえば、野生動物を思い浮かべてください。何も考えず、感じるままに行動することができるから、考えて行動する人間と比べはるかにナチュラルな動きができます。思ったことが行為に直結しないのであれば、それは「思いつき」に過ぎません。野生動物がそんな思いつきで行動していたらとても生きていられません。

感じる→心 (腸) 考える→頭 (脳) ひらめく→???

昔の人は「ひらめく=直観する」ことを「霊」という概念と結びつけ「霊感」などと呼んできました。どこか敬遠されがちな霊という概念も、人間の生理と結びつけ極力「科学の目」で捕らえなければならない感覚のひとつと言えるのです。
また、霊という言葉には、こうした「ひらめき」や「直観」だけでなく、「人格」や「品格」などという言葉とも重なり合います。そもそもこの「品格」は、外国人には伝わりにくい面を持っています。日本の武道の世界では心技体の「心」の部分に、勝負には直接関わりのない「品格」という概念を内包させるため、勝負を重視する競技スポーツとは相いれない面があるのです。なぜなら「心は死んだらなくなるが、霊はなくならない」。つまり、永遠普遍に続くものを求める感覚をどこかで持っているからです。

直感は脳ではなく「尾骨=しっぽ」でキャッチされる

心(感情)は消化管である腸と密接なつながりがあります。直観の場合、神経との関わりが深いことが想像できます。外界の刺激をキャッチするのは神経の役割ですが、神経は体中に張り巡らされています。肝心のアンテナは一体どこに立っているのでしょうか?私たちの体の構造をふまえた場合、脳と対極にある尾骨の神経がアンテナにふさわしいことが見えてきます。たった一対ですが、この神経がキャッチした情報は行為の起点である仙骨に即座に伝わります。野生動物の俊敏な動きは、この尾骨と仙骨の連動として捉えた方が理にかなっています。脊椎動物の歴史だけを見てもゆうに5億年以上の歳月が流れています。脳が生み出す「思考」よりも、脊髄に由来する「直観」、腸管に由来する「感情」「本能」のほうが遥かに古いでしょう。
体の感覚として捉えれば、自明のことであるはずが、人は数億年にわたって、脳を特異に発達させてきた結果、どうしても「頭で考える」ことに囚われ、それが
自分そのものであると思い込む傾向にあります。仏教の世界ではこうした脳に意識が偏った状態を「無明」と表現しています。これは「体を持って生きることを忘れてしまった」状態であると言えます。

こうして生きているのに生きている実感がない

この無明から抜け出すには、脳にばかり意識が偏った「頭でっかち」の状態に気づき、「意識の中心を肉体の中心に重ね合わせる」必要があります。それが座禅することの意味であり、この中心を重ね合わせる練習をくり返す中で「直観の回路とつながる=悟る」という体験が得られることになります。もちろん、「ハラ=下半身」には仙骨と尾骨だけでなく、感情の源と言っていい「腸」がどんと控え、しかも本能の母体である生殖器も隣接しています。つまり、ハラに意識を下ろすという事は必然的にこうした強烈な「生」のエネルギーと対峙することを意味します。

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01この「つながっている」という感覚があれば、自分自身に脳力があろうがなかろうが、自信を持って生きていけるはずです。「頭で考える」という事から離れることができれば、その分、直感力もつきやすくなるでしょう。しかし、直観がしばしば「当てにならないもの」とされてしまうのは、頭(脳)で考えた「思いつき」に過ぎないからで、「しっぽ」でキャッチした「直観」と同じものではありません。私たちがなにかに悩み、たえず葛藤するのは、自分の本心を見失っているからで、脳が特異に発達し「生物である自分」から遠ざかってしまった人間の宿命かもしれません。そこで注目されるのが「ハラの自分」のもう一つの側面である「腸」の働きです。腸には、感情(心)とのつながりを問う以前に食べ物を消化・吸収・排泄する消化管としての役割も与えられています。食事が乱れて、腸の働きが低下すれば、それは感情の劣化となって現れます。肉体的には腸に便が停滞し、腐敗して悪玉菌がはびこっている状態であり、それは「心の曇り」とも重なり合うでしょう。

生物であるということ、そして、食べることで生きているということ

ここをスタート地点として、「私」という存在を捉え直すと、この時代に生きる私たちが何を失ってしまったか?何を取り戻せばいいのか?その答えが見えてくるはずです。変わっていく主体は自分自身にあります。社会に変化を求めてしまうと変化は往々にして手に届かなくなりますが、自分が変わるということだけ意識したらどうでしょうか?自分自身が生物であるということを突き詰めていくと、消化管である腸の存在が大きく浮かび上がってきます。その腸から栄養が運ばれることで活動する細胞、その細胞を活かすためのエネルギーを生み出しているミトコンドリア。腸ー細胞ーミトコンドリア このつながりのなかに自分自身を変えていく答えが無数に隠されています。漠然とした心や意識の世界も、こうした「生物としての自分」と決して無縁ではありません。むしろ、このつながりを大事にして、まずは体を元気にすること。そのために食べることの本質を捉え直してみること。
世の中が行き詰まってしまったのは、こうしたつながりを見失い、体を置き去りにし、頭の中で創り出した理屈ばかりで生きてきたからなのです。

『心と身体を変える【底力】は【腸】にある腸脳力』より
生命科学情報室代表・サイエンスライター長沼敬憲・著

 


I’m Challenger 和菓子職人・まっちん

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転職、岐阜へ

2004年に三重県で和菓子工房まっちんを開き、製造、販売、接客など全て一人でこなしていました。
僕の作るお菓子は、無農薬の素材、粉は全粒粉、砂糖は化学精製されていない洗双糖と粗糖を使用、厳選した材料で作っています。自分にしか作れないお菓子を誰もが安心して、美味しく食べてもらう、という気持ちで作っています。それが珍しいということで、イラストレーターの大橋歩さんが雑誌に取り上げてくださってから、ガラッと状況が変わりました。はじめは地元でひっそりしていたんですけど、 大橋さんとの出会いで、全国から注文が入り、多い時は3ヶ月待ちとなる程。しかし、体調を悪くしたり、だんだん一人での限界を感じるようになりました。辞めないと新しい事は入ってこない、そう思ったので一旦辞めて次に向かおうと約5年半営業していた店を閉めることにしました。ただ、閉店後も、自分にできることはお菓子作りなので、催事とか、ギャラリーやカフェのイベントなどに行って、お菓子を販売しながら、次の展開を模索していました。
そんな時に三重県でのオーガニックマーケットという催事に参加したことから、岐阜市でmbカフェ(当時)と和菓子屋ツバメヤを経営している岡田さんとの出会いがあって、岐阜市に来る事になりました。

和菓子作りスタート

01 24か25才のとき、マクロビのお店で食事をして、「あ、ご飯ってこんなに美味しいんだ!」と思ったんです。そこのお店のスタッフには、アレルギーのひどい方もいらっしゃったのですが、どの人も「私は食で治すんだ」って。そんな辛い状況でもとても明るく「食」で治していこうという前向きな姿にすごく感銘を受けました。
その時に「食」の大切さを感じて、自分も「食」に関わる事で何かできたらいいな、自分でお米を作って、それでお菓子を作れたらいいな、という思いで、地元で無農薬で作られている農家さんにお願いをして米作りの修行をさせていただいたきました。ワンシーズンでしたが、その時に、たまたま地元の温泉組合の方から、「催事にお菓子を出してみないか」という話しをいただいたんです。じゃあ出してみますっ!て返事はしたものの、和菓子作りは未経験。でも、地元のもち米や小豆などがちょうど収穫時期だったので、それらを使って和菓子を作ろう、というのが僕の和菓子作りのスタートでした。その時は本当に知識も技術もない、何もない、よく出したなって思うくらい。(笑)
後から思えば、この時声をかけてもらったことは、もう運命やなと。それがあるから今の自分がある。それがなかったら今の自分はない。多分岐阜にもいない。いろんなことが巡り巡って来てる、なんかいろいろ感じますね。

店を持ちたい!

01温泉組合の催事では、はじめて作った和菓子に「美味しくない」とか手厳しい意見をもらいました。でも、そう言いながらも期間中に何度も来てくれて、最後の日には「美味しくなった」とか「これからも出してくれ」という言葉もいただきました。人とのやり取りの中で、ありがたい厳しさ、優しさ、というのをたくさん味わってしまった。それが「お菓子を作りたい!」という気持ちになっていったんです。作っている時はとても大変で、これ以上もうできないと思っていたんですけど、その催事が終わった頃、50年くらい職人として働いた後、一人で和菓子工房を構えた和菓子職人の方に出会いました。その方の姿に惹かれたこともあって、どんどんどんどん、「自分でお菓子を作りたい」「お店を持ちたい」という強い気持ちになっていったんです。それでお米作りが終わってからはお菓子の勉強に専念しよう、それも修業に行くのではなく、独学にしようと決めていました。安心できる素材で自分にしか作れない身近なお菓子を作りたい。よし!全部自分で学んでいこう、と。右も左も何も分からないので、ひたすらあちこち食べ歩きながら、お菓子作りの構想を立てていったんです。
三重県の温泉の催事の方は毎期間、呼んでいただいて、出すたびにどんどん好評になって、一番の売り上げを出すようになりました。そうやって学びながら、頭の中はお菓子の事でいっぱいで、いつかは自分の店を持ちたい、という気持ちがどんどん強くなっていったんです。
そんな頃、ある大工さんがやってきて、「お前そこまでやって、お客さんもいるんだったら、お店をやれ。実家の一角に空きスペースがあるやろ、そこでやるべきや、おれが安く直してやる!」と。それでその大工さんに建物を造っていただいたのが、「和菓子工房まっちん」です。

独学の苦労と特権

和菓子工房では本当にいろんなお菓子を作りました。赤飯まんじゅうのアレンジで「雑穀おこわまんじゅう」「玄米おはぎ」、きび100%の「きびもち」、「よもぎ黒豆大福」だとか。田舎っぽい、大きいのが好きなんですよ。手が大きいというのもあるんですけど、細かいのを作るより、バーンとしたのを作りたいんです。その中でヒットしたお菓子は、「わらび餅」と「わらびまんじゅう」です。本当に試行錯誤の連続で、全国のわらび餅を食べ歩きして、自分が作りたい物にたどり着くまで3年かかりました。
多分、自分は人の何倍も勉強していると思います。それは自分には基礎がないから。今でもそうですけど、スランプになったらなかなか抜け出せなかったり、本を見てもわからないし。
これは僕が仕事としてやって行く事だから、ちゃんと学ばなあかんな、ちゃんと材料のことを知って、使って、作り上げる事はすごく大切だなと思いました。自分で考える。それは特定の店で修行していない特権だと思ってるんです。枠に縛られない、だからいろんなものを作れるんです。
実は、僕の家系はお菓子家系なんです。祖父は有名な職人で、全国の菓子組合の会長もやっていたし、父は酒まんじゅう屋、親戚には和菓子屋、ホットケーキ屋、甘味どころなど。でも、自分は和菓子は好きではなかった。甘い物があまり好きでなかったし。なんで今自分がお菓子を作っているんだろうって、たまに思います。完全にこれは運命、DNAやなと思っています。

やっぱり自分にできることは安心安全、誰もが美味しく食べてもらえるお菓子作り。 山本佐太郎商店の社長ともよく話し合うのは、“三十年後のおやつ作り”。震災以降食に対する不安だとか、さまざまな問題が起こって来ています。特に子どもはこれからの未来を背負っていく存在、不安なモノが蓄積されていくのは怖いです。おやつというのは暮らしには欠かせないものだし、安心な物を食べて、美味しいというのを記憶にもってもらえたら嬉しいですね。それが当たり前の日常になればいいなぁ、と思うんです。
ただ、全部本の通りの素材を使うんじゃなくて、身近でお気に入りの素材で作ってもらえたらいい。その家庭、家族、仲間で作るていうか、そういうのも一緒に作る絆みたいなものを大事にしてほしいですね。
素材にこだわる過ぎると、自分も経験があるんですけど、楽しくないし、逆に体を悪くするなぁと思いました。完全にいいものばかり摂らなきゃというその余裕のなさは、メンタル面に良くないと思うんです。やっぱり食事をするというのは、楽しくって、温かさもあって、いろんな意味を含めての食事だと思うんです。

今後

01「山本佐太郎商店&まっちん」っていうお菓子が全国に広がって、いろんな方に食べてもらえたら嬉しい。自分の関わったお菓子はいろんな人に伝えていきたい。自分が作って来たおやつというのも、家庭でつくってもらえるような気楽なお菓子としてみんなに知ってもらいたいです。お菓子作りをはじめて、本当にいろんな人との出会いがありました。出会った人の数だけ、自分の人生が広がったと感じます。お菓子でみんなと繋がっていく、というのも自分のテーマでもあるし、それが楽しいです。「お菓子で繋がる人生」そういうのもいいなぁ~。

おやつのレシピ本『まっちんのおやつ』

01『まっちんのおやつ』和菓子というよりもおやつ。おやつといったら気楽に、子どももおじいちゃんおばあちゃんもみんなに食べてもらえるかな、と。日本のおやつ作り、そんなイメージでみんなが簡単に作れて、楽しく美味しく広まってくれるとうれしいですね。
家庭で作るんだから、お金をかけずに、身近にある素材と道具で、簡単にいかにおいしく作れるか、そこにこだわりました。「ちんすこう」は子どもさんと一緒に形もぎゅっぎゅって握ったり、好きに作ってもらったら楽しいと思います。
この本、応用が無限大なんです。この半月餅というのによもぎを入れるとよもぎ半月餅。中にくるみ粒あんやフルーツを入れてもいい。砂糖を入れずに、余ったキンピラを入れたら、もちもちのおやきみたい。練乳も葛と砂糖と低温殺菌牛乳でビックリするくらい簡単にできます。添加物の心配もいらないし。本がクタクタになるくらいまで使ってもらえたら嬉しいです。
初めての出版という事で、右も左もわからず、とにかく夢中、全力でやりきったというか、もう正月もなくずっとお菓子作ってたなぁと。自分たちの思いを形にするっていうのは、こんなに難しい事なんだなぁとつくづく思いました。忘れられない一冊となりました。出版社: WAVE出版 1,470円