193号 (2020.1&2)」カテゴリーアーカイブ

vol.193 動物のいのち 私たちのいのち

「いのち」の背景を考える

    写真家・映画監督 大西 暢夫さんに聞く

『ぶたにく』 著:大西 暢夫  
お米や野菜は、どうやって育つかを知っている。でも、ぶた肉がどうやって食卓へあがるのかは知らない!鹿児島市にある知的障害施設が舞台。そこでは障害をもつ方たちが、とても大切にぶたを育てている。ぶたの餌は小学校の残飯。私たち人間が残したものをぶたは食べ、10か月で出荷され、ぶた肉となる。その繰り返しで、我々は生きている…「いのち」「食」を学ぶドキュメンタリー写真絵本。          A4変形版 幻冬舎

動物のいのちを考える

ー『ぶたにく』。ずいぶんストレートなタイトルですね。

 はい、直球ですね。かわいい黒豚が表紙で裏表紙がソーセージ。さらにこの本には屠殺場も出てきます。最初かわいい豚さんで始まるのに、最後の方に枝肉がダーって吊るされているシーン。すると子どもたちは大興奮するんですけど、親はそれを見せるかどうかっていうので賛否両論が結構ありました。そして、次の展開ではついこの間産んだばかりのお母さんブタが、またタネをつけられ、また子豚が生まれるっていう話で終わリます。
 実はそこまでの過程がとても大事なのだと思っています。僕は今まで豚と出会うことがなかった。牛は牧場で見かけるけど豚は豚舎。だけど豚って可愛いし、結構アイドルでいいキャラしているし。でも、豚って何者?って思うくらい全然知らなかった。

 僕たちはどれくらい成長した豚を食べているか知らないですよね。みんな子豚なんですよ。8ヶ月とか10ヶ月の子豚。柔らかくて美味しいからって。それを知った時は結構ショックでしたね。

 養豚場にはいろんなルールがあるんですね。いつごろ、何匹生まれるとか、体温が37度、お乳の数と生まれてくる数はほぼ一緒でだいたい満月の頃に生まれる、全国で毎日6万頭潰して、さらに毎日7万頭輸入しています。売り切れがなくどこでも売ってる・・・そういう数字をベースに本を作ったんですね。
 全て人間の都合で命を操作している。そういう背景を知って愕然としました。取材先である鹿児島のゆうかり学園という社会福祉法人は、豚に残飯を食べさせて10ヶ月で出荷しています。
 残飯は老人ホームや小学校、コンビニからパン屋さんを回ります。するとポリタンクが10箱くらいになる。で、その残飯には、豚肉やソーセージとかが入っている。ブタが豚を食べる・・・命を育てているのか、食べ物を育てているのか、わからないサイクルがあって、僕たちは、一体何を作っているんだろって、頭がこんがらがっちゃて。

 毎年、池田町の八幡小学校で講演をするのですが、「ぶた、見たことある?」って聞くと、見たことがない子が多いんです。「豚肉は美味しいけどお腹いっぱいだからポイッと捨てたけど、その豚肉が豚の餌となってまた肉になって給食のおかずとなって戻ってきているってどう思う?」と投げかけてもいます。

ー豚をペットにしている人もいます。ぶたはきれい好きだそうですね。

 においは動物ですから多少は漂いますが結構可愛いですから豚をペットにする人もいるでしょう。ということはペット用に育成して大量に繁殖するという背景を考えて欲しいと思います。例えば、チワワ。CMで人気が出て爆発的に増やした。それでどれだけのチワワが捨てられたことか。どれだけいのちが操作されているか、ブームの背景を読み取らないとね。
 僕らはホームセンターや大型マーケットにあるようなペットショップという形態で動物を売るという方法をなくした方がいいと思っています。プロのブリーダーが、保健所の犬を扱って、かっこよくして、そこで売ればいいのにと思う。ただ犬種がみんな雑種!とかなるかもしれないけど(笑)。あの子たちは本当に可愛いですから。殺処分に関して岐阜県はまだまだですね。滋賀県はやめたし、広島はゼロです。

 うちのハナ(柴犬)も保健所で目があっちゃったんですよね。保健所の片隅にいてね、静かで吠えないんです。吠える人には吠えるけど、好きな人には尻尾振って・・・だけど保健所の人が、「この犬はすごい凶暴ですから気をつけてください。最初にちょっと散歩をしてみますか?」そう言って、引っ張ると固定される紐を首に入れてぎゅっとするとワーワーワンって怒るんですよね。「こいつはこうやってはむかって」って言うんですが、そんなことされればどんな犬でも怒るでしょ。
 家に連れてきた日かな、撫でていたら突然がぶって僕の手を噛んだんですよ。やや甘噛みだったのですが、血が出たんで「ハナ痛いよな」って目を合わせて言ったら、血の出ているところをぺろぺろなめ始まるんですよ。それからのハナは僕と取っ組み合いの喧嘩しても平気です。
 ところが、前の飼い主は、孫にすごい勢いで噛むと言うんですね、孫が棒で殴ったらしいんです。それから首輪が変えられないくらいもう凶暴になって、危ないからと保健所に連れてこられた。結局そこに愛情があるかどうかの話ですよね。しかも子犬を産んだ後に、です。ハナは自分の子どもたちとも別れ、ボコボコにされて、死のギリギリのところまで行って、「ちょっと待った」と声がかかった。ラッキーですけど、彼女の背景にはそういうすごい辛い体験があるんです。

今は幸せなハナ

たくさんの小さないのちを考える

 糸は繭から紡ぐのですが、綿は引っ張って作ります。滋賀県の米原と長浜の話。この地域では<棚がい>という古くて珍しい昔の飼い方で、藁で飼っています。これも実はいのちの話につながっていくんですが、彼らは「虫供養」というのをきちんと行います。例えば一つの掛け布団を作るのにおよそ3,600個くらいのお蚕さんの命をいただいているわけです。ついこの間までお蚕さん(養蚕業)は盛んで生産量が世界ナンバーワンで日本で唯一の輸出品目だったのですが、今はお蚕さんという存在自体わからなくなっています。蚕糸協会に他県の養蚕農家が取引にやってきます。それくらい近県に市場がないんです。年に一回だけ美濃加茂で取引が行われています。
 僕たちはたくさんの小さないのちを身にまとっているんです。それはお蚕さん自身がくるまって温まっている暖かさなんですね。(取材中、お借りした真綿の膝掛けはとても軽くて暖かかった)人が加工したものの中に、このいのちあるお蚕さんたちのあったかさがある、という話です。子ども達にとっては、いのちあるものから糸ができるなんてことすら想像ができない、そこからがスタートで書いた本です。

『お蚕さんから糸と綿と』 著:大西 暢夫  
お蚕さんを育て、その繭から糸を取る。それが生糸になり、真綿にもなる。滋賀県で養蚕業にたずさわる人々の姿から、人間本来の生活の営みについて伝える。2020年1月中旬発売 B5変形版 アリス館

ー今は石油製品からできる人工的なもので包まれていますね。ナイロン、フリース、ポリエチレン、ポリエステルなどなどですが、静電気が起こり体にもよくないですね。

 ものが簡単に手に入る時代。インターネットでも、ポチッと押せばもう翌日に送られてくる。製品が作られるまでの過程をポンと飛び越えて。下手すればネットで犬、猫に限らず生きものさえ買える時代。それまでに生きてきた動物の背景なんて知らなくてもいいわけですよね。そこが今「いのちを大事にする」という中で足りないものですよね。出会うまでの過程がないからだろうなと思う。

ー過程が省略されているから、元の形を知らない。日常の、食べ物、身に纏うものの背景を知ることがとても大事なんですね。ちょっと広げてみたときに、棲む場所を失う野生動物、実験に使われいのちを落とす動物たち、被災地の動物たち、そういう動物たちに日常の中で少しでも思いを馳せたいと思うんですが…

 そうですね。いのちがもっと生活の中の近い場所にあればいいんだけど、そういうものがかなりバーチャルになってきていて、実感がないというか。実際、こういう子(大西家の保護猫)を触ったり抱っこしたりすることで、温もりを感じたり、死んだら生き返らないことを実体験することはバーチャルではできません。(大西家には保護猫が4匹と、前述した保護犬・ハナがいます)生き物は死ぬということ、生き物を看取るということ、そういうことが次に繋がり、また次に動物と向き合うかどうかということも考えるでしょう。

ー生きものと切っても切れない関係にあるにも関わらず、みんなあまり意識をしていない感じがします。

 意識していたら多分殺処分なんかないでしょうね。そいうところに連れてくるのは飼い主の身勝手。さまざまな事情もあるでしょうが、保健所に連れて行くというのは最終決断じゃないですか。でもそれほど考えずに持ってくる人が多いだろうなと思います。たとえ最終でも保健所へという決断はないでしょう。葬っちゃうわけですから。

ー『ぶたにく』に関連しますが、鶏を飼い卵を売って資金にしているある福祉施設では、卵を産まなくなった鶏をどうするか議論になりました。子どもたちが世話をして最終的に肉にするのはどうかと。結局私たちは日常的に鶏肉を食べています。そこに触れずにその過程を避けているという気がします。

 そういう中でちょっと動物に対して、隙を与えるというか、そういう生き方だってありだよなって、思ったりするんです。

ー隙というと?

 動物が生きやすい場所というか、そういうところがあってもいい。昔は野良犬がいっぱいいた。今だとすぐ保健所に電話する。それは街をきれいにしていくという言葉に似たようなところがある。僕は精神病院の取材を長くやっていますが、変わったおっちゃんたちが排除されました。そういう変わった人たちを町から排除したりとか、犬だって、動物たちだって同じようなもので、住みかのない子たちは駆除という名目で役場に連絡して捕獲されることと、構造的には結構似てる話だと思います。犬と人間を一緒にするのは違和感はありますが、考えるスタイルとすれば、排除するという感覚が似ていますね。

私たちのいのちを考える

ー排除という言葉、ヤマユリ学園の殺傷事件では生産性がない、生きていてもしょうがない、と多くの方が殺されました。

 関わってないから、知らないからだろうなって思います。実は東北のるんびにい美術館(アール・ブリュットの美術館)で僕の写真展が開かれています。タイトルは「いのちの姿、あなたの形」。重症身体障害者で動けない、喋れない、立てない、ないない尽くしの方達ばかりでいわゆる生産性のない人たちです。ずっと悩んでいたテーマで、10年間岩手に通って撮影してきました。
 人はこの人たちを見たときにどう思うか、その背景を考えないで漠然と彼らを見たときに、「なんや、なんもできへんやん」だけで終わってしまう。

大西暢夫写真展2019年10月11日ー2020年1月27日

彼らを撮るとすごく絵になりやすいんです。へんてこりんな形をしてるし。だけど、絵になると写真ってつまんない、という僕の持論があって、「彼らの何が撮りたいんだ」と突き詰めたときに、彼らのことが「わからなかった」わけです。それで、「わからない」っていうことをテーマにしようと思った。そのときに初めてこの車椅子と出会ったんです。ボコボコしているし誰が座るか想像がつかない超オーダーメイドの車椅子。これを作る人たちって誰?と思って、会津若松の職人さんのところに行きました。


 そこでは作業療法士らとタッグを組みながら、「こんなに変形しているけどどうしたらええか」と、ず—っとその人を見て職人さんたちが悩むわけです。リハビリをする人たちも、ずっと悩んで仕事をするわけですよね。リハビリの哲学みたいなものの中には、やっぱり歩くこととか、元の機能に近づけるとかがあるけれど、この人たちには全く通じない話なんですね。もともと歩く機能がないわけだから、歩かせることをリハビリと言わないわけです。だけど踏ん反り返ったこの角度は辛いんじゃないかと疑問を持つわけです。あーでもない、こうでもないと断定をしない仕事ばかり。仕事は断定して即決して効率が求められますよね。それとは真逆で、彼らは断定しないんです。

ー考える軸をどこに当てるか、ということでしょうか

 「この人はどうやったら立つんだ」というのが僕の見方でした。それはこの人にとっていいか悪いかではなく、僕の都合だったんですね。この人たちと出会わなかったら、そういうことを考えることはなかったでしょう。だからこそ、この人たちのいのちは大事だと思ったんです。僕がこのことに対して考えなきゃいけないから。そしてそこに、「わからない」を形にする車椅子を作る職人さんたちがいた。その職人さんたちの阿吽の呼吸で、車椅子はでき上がっていくんだけど、福祉的な議論というよりも、どうやったらこの人をうまく座らせることができるかなと、職人さんたちが頭をひねるわけです。僕はそこに一番の愛情を感じたんです。
 で、職人さんたちが、「彼らのことがわからない」とよく言うので、その「わからない」という言葉を表現したいがために、彼らを撮っているという感じでした。そういう中で、彼らの存在がなぜ必要なのか、ということに行き着いていくんです。それは多分、出会って知って考えること。彼らが存在するからこそ考えたことは山ほどありました。それらが一つの基本ベースとなれば、いろんなことに応用できるのではないかと思っています。

おおにし のぶお●プロフィール
写真家、映画監督。1968年東京生まれ。岐阜県揖斐郡池田町で育つ。東京綜合写真専門学校卒業後、写真家の本橋成一さんに師事。アシスタントをするあいまに、ダムに沈む岐阜県徳山村の取材を独自に開始する。独立後も今に至るまで全国を巡りダムに沈む村を追い続けている。そのほか精神科病棟、東日本大震災被災地、いずれも終わりのない長期取材を続けている。
映画監督作品に「水になった村』『家族の軌跡 3.11の記憶から』『オキナワへいこう』
著書に「ひとりひとりの人」「糸に染まる季節」「津波の夜に 3.11の記憶」など。


 


vol.193 ちびっこルーム

鼻とのどの不快な症状 看病の基本はなに?

心配しなくてよいとき、我慢させてはいけないとき、受診する目安って…        耳鼻咽喉科医 水谷 淳子

鼻、つらそうに見えても

鼻がつまるということは、鼻汁が増えて粘膜がはれているということですから、これらを軽くすればいいのです。温度と湿度あたえると手当てがしやすくなるので、入浴後や、あたたかいおしぼりを当ててみてください。粘膜のはれがひいて、鼻汁の粘りも軽くなります。そうすると鼻汁を吸ってあげやすくなり、鼻もかみやすくなります。
 ところで、鼻づまりがあって苦しそうに見えても、当の本人はあまりつらくないことがよくあります。赤ちゃんの場合、おっぱいやミルクを休み休みでも飲めていれば気にすることはありません。  もう少し大きいこどもの場合でも、鼻づまりでズーズーしていても眠れていれば、あるいは本人が気にしていなければ、やっきになって鼻づまりを治そうとする必要はありません。急性副鼻腔炎になっても、二〜三週間で自然に治ることもけっこう多いです。
 ですから、受診する目安は、おっぱいやミルクが十分に飲めないとき、鼻づまりやのどに落ちてくる鼻汁のためにせきが出て、何度も目が覚めて眠れないときでしょうか。あまり起きないことですが、発熱や頭痛が続くとき、頬が痛み赤くはれているときなども受診してください。

からだを守るために必要なせき

 コンコン、ゼロゼロのせきもつらそうです。とくに夜、何度もせきが出て親子ともども眠れない夜が続くと、ほんとうに疲れます。だけど、せきというのは、からだを守るために必要があって出ているという面があり、せきをすることによって、のど、気管、気管支といった空気の通り道にある刺激物を追いだす役目を果たしているのです。

 刺激物というのは、乾いた冷たい空気、ほこり、気道の粘膜のはれ、そのために増えた分泌物である痰、のどへ流れてくる鼻汁などです。せきを強い薬で止めてしまうということは、からだにとってよくありません。重い病気でせきが出ない状態、弱いせきしか出せない状態の人が肺炎になりやすいことでも、せきが出ることがいかに大事かわかると思います。
 せきが出ていても元気に遊びまわっている、少しおとなしくしていればひどいせきは出ない、夜分せきで目が覚めることはあってもだいたいは眠れている。という場合は受診しなくてよいと思います。
 受診する目安は、せきが出て親子ともどもほとんど眠れない、だんだんせきがひどくなってくる、といったときでしょうか。でも最近は、せきがうるさいので医者に行くようにと、学校からいわれて受診するこどもがいるくらいですから、目安といっても確たるものではありません。
 ただし、我慢してはいけないときもあります。赤ちゃんや小さいこどもののどは内径がせまいし、やわらかく、分泌物も多いのです。いちばんせまい喉頭付近がはれると、息ができなくなることがあります。肩で息をしている、くちびるが紫色になっている、話もできない、声がくぐもっている、よだれも多くなっている、せきこんだあとにヒューとかゴーといった音が聞こえるなどのときは、夜中であっても救急に受診してください。

あ゛っ鼻血! どうやって止める?

こどもといっしょに覚えたいその原因と応急処置のしかた 小児科医 山田 真

 こどもは鼻血をよく出します。しょっちゅう鼻血が出るこどももいます。お母さんやお父さんのなかには「鼻血→白血病」というふうに想像をたくましくして不安になる人もいますが、ほとんどは心配のないものです。 
 20分以上も出つづけるようなときや、鼻血以外に歯ぐきからの出血があったときなどは血液の検査をしたほうがいいでしょうが、短時間の鼻血をくり返す場合は、検査の必要もありません。
鼻血が出たときの対処方法をお話ししておきましょう。
 まずこどもを座らせ、頭を前に傾けます。このとき、頭を仰向きにさせると、鼻血がのどのほうへ落ちて、吐き気が起きたりしますから、かならず頭は前に傾けることです。そして口呼吸をさせながら小鼻の部分をつまみ、十分後に指を離すと、たいていは止まっています。もしまだ出血が続いていたら耳鼻科へ行くことにしましょう。
 鼻をかんだり首のうしろを叩いたりするのはやめましょう。鼻を冷やすことも意味がないと思われます。
 また鼻へティッシュペーパーなどをつめることも意味がないようです。綿をつめるのは、奥のほうへ入りこんでとれなくなることもあり、有害ともいえます。とにかく鼻をつまみつづけていることで、たいていの鼻血は止まってしまうということです。

プロフィール 

みずたに・あつこ 埼玉県にて耳鼻咽喉科医院を開業                 やまだ・まこと 小児科医、八王子中央診療所所長。「子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク」代表。ち・お編集委員。


vol.193 「ズッコケ三人組」平和を語る

1978年にシリーズ「ズッコケ三人組」が始まり、2004年に50巻に。2500万部という戦後のベストセラーになった。2005年からは40歳になった三人組のシリーズが始まる。

児童文学者 那須 正幹さん

なぜこの本が子ども達に支持されたか

 小学6年のハチベェ、モーちゃん、ハカセという3人が、それぞれの特徴を生かして事件を解決する物語で徹底した娯楽小説です。それが受けた理由じゃないかなと思っている。ただ、戦争のことだけは取り上げなかった。もしこの3人が、太平洋戦争の時に国民学校の生徒だったら、ハチベェのようなおっちょこちょいがうろちょろすると先生から目をつけられてマークされる。モーちゃんみたいにスローな子は配属将校にお尻を蹴飛ばされるだろうし、ハカセみたいな理屈屋は、「先生、戦争は間違っているんじゃないか」と言って特高に睨まれる…裏を返せば、この3人がこれだけ元気に駆け回れるのは、日本が平和で民主主義の国だからこそ。そう考えて、この50巻では一切戦争について書きませんでした。

わたしの原体験

 では私自身は戦争に対して全く無関心だったかというと、実は他の本では取り上げています。わたしは1942年6月に広島市の西区己斐本町で生まれ、3歳の時に被爆しました。私の家は爆心から直線距離でおよそ3キロ。爆発の瞬間に、爆風で我が家の屋根が吹き飛びました。その後、雨が降ってきたので押入れの中で雨宿りしながら当時の国民学校の一年生の国語の本を眺めていた。巻末に桃太郎のお話が載っていた。天然色というか、綺麗な色がついていたような記憶がありますね。そして午後になると、市街地から被爆した人が逃げて来られました。全身灰色で、髪もパーマをかけたみたいにチリチリでまるで人形がフラフラ歩いている…怖いというよりあっけにとられていたという記憶があります。さらに夕方になって大八車に缶詰を山積みにしたおじさんが、「水を飲ませてくれ」と言ってきたので、我が家の井戸水をあげたら、お礼にみかんの缶詰を一つ開けてくれた。それが火傷するくらい熱かった。それをフーフーしながら食べた。この記憶だけは77歳になるのにいまだにあります。

子ども心にも「変だ」と思う出来事

 私の父は当時女学校の教師をしており、爆心地から10キロほどにある学校の職員室で被爆し頭と背中に怪我をしました。ある時、父親が家族会議を開こうと言い出した。その時に憲法の話もしまして、「これからの日本は戦争をしない」と。これは子ども心にすごく嬉しかった。父親は79歳で死んだのですが、遺品に「憲法入門」という本が出てきて、中にものすごく画期的なことが書いてあるんですよ。当時の大人たちは、新憲法というのを勉強していたんですね。
 私が小学校2年の時に、朝鮮戦争が始まりました。日本には警察予備隊という軍隊まがいのものができました。あれよあれよという間に保安隊と名前が変わり、6年生の時にはいわゆる自衛隊となった。
これには流石におかしいなと思いましたね。で、友達と学校帰りに、「ほりゃおかしいぞ!日本は戦争をしないといっているのに、軍隊を持たんことになっているのに、なんで自衛隊ができるんだ」って。友達も「そうだそうだ」、「今の大人は信用できん」、「あいつらが戦争をはじめたんだ」、「わしらが大人になったら自衛隊ぶっ潰そうぜ!」「一緒にやろう!」って、息巻いていた。
 残念ながら自衛隊をぶっ潰すこともできずに、もう77歳になりました。まぁ、その代わりに児童文学の中で、色々書いていこうと思っております。

広島を離れて気づいたこと

 戦争について一番最初に書いたのは「屋根裏の遠い旅」。いわゆるSFで戦争に勝った日本から戦争に負けた日本に行く冒険小説です。まず巻頭に「日本国憲法 第9条」の前文を書きました。平和憲法の中で、自衛隊が生まれたことに対する疑問、これについてなんか書こうと。当時はベトナム戦争の真っ只中で、今の日本だっていつ戦争になるかもわからないんだよというということを読者に伝えたかった。
 当時、被爆体験を児童文学の形として継承しようというのをモットーにしていた「こどもの家」という同人誌があったんですが、私は一度も原爆について書かなかった。広島に住んでいると、原爆、広島では「ピカ」というんですが、ピカの話が日常茶飯事で、今さら原爆を文学の形で書いても、という思いがあったからです。でも山口県に引っ越したら途端に原爆の情報が途絶えたんです。そうすると逆に気になりだす。さらに乾富美子さんという大先輩と一緒に飲んだ時、「あんたも原爆の被爆者なんでしょ、やはり原爆のことを書きなさい」とお説教されたんです。
 その時ふっと思ったのが、平和公園にある「原爆の子の像」。折鶴を折る少女の像です。私が高校一年の時に除幕されたんですが、あの像のモデルになった佐々木禎子さんという人は昭和18年の2月生まれ。早生まれですから私とは学年は一緒。同じ世代の目線で、佐々木禎子さんのこと、原爆の子の像の建立運動を書いてみようと取材をはじめました。
 佐々木禎子さんは、小学生になって白血病になり、中一の10月に亡くなった。クラスメートたちが同級生の死を悼んで世界平和のための原爆の子の像を作ったわけです。
 この「折り鶴の子どもたち―原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち」を書いた時に、いかに自分が原爆について無知だったか思い知らされた。言葉のルーツや正確な意味をもういっぺん勉強し直さなきゃと思いました。

原爆と原子力

 1989年に西村繁男さんが福音館から「僕らの地図旅行」という絵本を出したんですね。その絵を見た時に、絵本だったら広島の原爆の全体像が表現できるな、と思いました。文章で書いても難しすぎて、子どもは読んでくれません。この「絵で読む広島の原爆」は、「セミの声」をキーワードにしています。読者を50年前にタイムスリップさせるんです。セミの声は、江戸時代の城下町で栄えた頃も、明治以降、政治、経済、教育そして軍事の中心として発展した1941年の夏にもうるさいほど聞こえていたそうです。そしてこの本は科学絵本でもあります。例えば核分裂について。核兵器の元になった原子核の分裂によってすごいエネルギーが出るということまで、詳しく描いて日本に原爆を落とす経緯を説明している。さらに、戦後の日本、冷戦時代のソ連崩壊までを全部年表にして載せてある。原爆の百科事典みたいな本になっています。
 実はこの本を書いていた時に、身体を壊しました。だからもう原爆については書かないと思ったけど、広島の人間として一度は書かないと。原爆だけじゃなく、特に戦後の日本を書いていかなきゃいけないなと、そんな思いで書きましたね。
 そして、2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。その年の6月に福島の小学校に行き「広島の人たちは苦しいこともあったけど、あの日に起こったことだけは絶対に忘れないよう、作文でもいいし、なんでもいいから記録しておきなさい」と、話をしたんです。するとある児童から「私たちは30歳までに死ぬと思っています。那須先生は3歳の頃にいっぱい放射能を浴びたのにいまだに元気で、だからすごく嬉しい」と言われました。それを聞いた時はショックでしたね。小学校6年のごくごく普通の子ですよ。これはね、放射線は、肉体だけでなしに心まで傷つけるんだと思いました。その子の話がきっかけで山口県の上関原子力発電所建設の反対運動に積極的に関わることになりました。

今の子どもたちにどう伝えたらいいか…

劇団風の子中部による朗読劇「茶色の朝」

 今の子ども達に戦争を伝えるというのは、非常に難しいです。戦争というのは勝つために全てを収斂させます。「欲しがりません、勝つまでは」という標語がありましたが、文字通り戦争に勝つためにあらゆることを犠牲にした。そういう状況を今の子ども達は知らない、というより50代の人たちも知らないわけですよ。まさか戦争になることはないだろうと。しかし気がついたときには戦争になってた・・・。戦前もそうだった。そういう状況が作られるのですから。
 ですが、戦争を語るのは大変難しいんですね。じゃぁ、語らずにいたらいいのか?例えば平和教育。私もいろんなところで話をしますが、今の親御さんの中には戦争の体験談のような話を子どもに聞かせたくない、と思っている方が多い。例えば「はだしのゲン」を子どもに見せるのは良くないと。読ませない。図書館から撤去したと。本当にそれでいいのか。

次の世代に伝えたいこと

 私の家族の話をします。長男が小学校5年、次男が小学1年生、3番目の長女が年少の時だったかな、広島の資料館に連れていった。今は撤去された被爆人形(子どもを連れた全身ケロイドの母親の人形)がうす暗い照明の中に立っている、お化け屋敷みたいなもんですね。その側まで行ったら、次男が固まってしまった。私自身は3歳の時、被爆体験をしているから見せても構わんだろうと思ったんだけど、次男の反応があまりにもひどかったので、ちょっと反省したんです。
 ところがその次男が高校3年の時、「資料館」へ行きたいと言うんです。それから3年くらい経った時に、長女も「資料館へ行きたい」って言うんですよ。「子どもの時に見てすごく怖かったんだけど、あれはどういうことなのか、なぜ怖かったのか自分でちゃんと見たい」と。それから一昨年かな、長男が家族を連れて「資料館」に行きました。だから子どもの時に、いっぺんはね、こういうことを見たり聞いたりしたほうがいいんじゃないかと私は思っている。その時は怖かっただろうけど、大人になって「なぜ?」と思って再確認をする。今の若い人たちには、特に必要なことだと思うんです。
 次に私が卒業した高校の話をします。創作表現コースという芸術のコースがあり、学生達が12年前から「被爆者と光」という絵を描きはじめたんです。これは平和プロジェクトの一つです。「次世代と拓く 原爆の絵」は被爆者から聞いた話を油絵にします。これは大変な作業です。今の子にゲートルとか三角巾と言ってもわからん、国防色って何色? 語り部も70年前のこと、うろ覚えのところもある。記憶を記録にする。しかも今の子どもたちがそれに協力している。こういうプロジェクトはすごく大切なことです。
 だから、「次世代と描く東京大空襲」「次世代が描く東日本大震災」、そういう形で次の世代に、繋いでいけたらと思います。

岐阜市民会館大ホール 講演に聞き入る参加者のみなさん
シンガーソングライター・増田康記さんとフィナーレ

2019年11月3日 平和のつどい 主催:「2019平和のつどい実行委員会」 参画:岐阜県内「九(9)条の会」 事務局:岐阜・9条の会


vol.193 しょうがいをみつめる vol.4

特別支援教育

特別支援教育:2007年4月から学校教育法の一部改正によって、特殊教育から特別支援教育に変わり、すべての幼稚園・学校において、障害のある子どもの支援を充実していくことになりました。特殊教育との大きな違いは、理念として「障害のある幼児・児童・生徒への教育にとどまらず、障害の有無やその他の個々の違いを認識しつつ様々な人々が生き生きと活躍できる共生社会の形成の基礎となるもの」という共生社会の実現が加わったことです。

 今回は、公立小学校の特別支援学級に在籍がある子どもたちの例を紹介します。文中に出てくる交流学級とは、特別支援学級に在籍がある児童生徒が交流している通常学級のクラスのことです。

・小学1年生、情緒障害A君
 A君は、自分の身の回りのことができ、友だちと基本的なコミュニケーションがとれます。愛嬌があり人気者です。語彙が少なく、自分の気持ちを言葉で表現するのことが苦手なため、小さなすれ違いからトラブルになることがあります。
 A君は、国語、算数以外(生活、音楽、図工、体育、行事)は交流学級で学んでいます。
 特別支援学級で学ぶ時間には、国語や算数の基本的な学習をA君に合わせた進度や学習方法で、自主的に学ぶ力をつけていきます。また、交流学級で学んできた他の教科でのまとめや、理解できなかった部分の確認なども行います。
 交流学級で意欲的に学習に向かえるよう、特別支援学級で基本的な力を身に付けています。また、特別支援学級の少人数の中で基礎的なコミュニケーションスキルを獲得しています。

・小学5年生、知的障害B君
 B君は、体験的な学習から気づく力がありますが、それを文章や言葉でまとめることが不得意です。文章を読んだり書いたりするのには、時間がかかります。
 B君が交流で通常学級へ行くのは、理科、体育、英語、総合的な学習、行事です。学習内容により、教師が付き添います。
 理科の実験では、多くの気付きがあり、事象を捉える力がありますが、それをノートに書いたり、人に伝えることは苦手なため、付き添いの教師が書くことの手助けをすることで皆の前で堂々と発表することができます。教師の付き添いが必要かは、授業内容やB君の希望、他の子の授業内容とも相談しながら決めていきます。

 私が初めて特別支援教育に関わったのは、「特別支援教育」という言葉が学校教育法に位置付けられた平成19年でした。当時は、特別支援学級に在籍している児童生徒は、ほとんどの時間を特別支援学級で過ごし、交流へ行き通常学級で過ごすのは、特別な行事のある時間くらいでした。
 現在では、交流学級で学習する上での困難が軽減するために、特別支援学級で基礎・基本的な力を身につけると言えるくらい、交流学級(通常学級)で過ごす時間が増えています。(個人差や学校の取り組み方に違いはあります。)
 障害のある子とない子が共に学ぶインクルーシブ教育の実現に向けて、特別支援学級のあり方も形を変えていることを実感しています。一方で、障害のある子もない子も、その能力を最大限に生かすにはまだ課題があることも事実です。


vol.193  niramekko Gallery「せかいに1つのくさ」

さくらちゃんのクールなものの言い方に、ドギマギする大人たち。彼女のことばは的確に状況を表すからなのかもしれない。自分だけの世界観を持っているから、どんなクラスでもマイペース。具象、抽象と表現は常に変わる。しかし彼女の発想は驚くほど豊かです。その作品に出会うと、大人たちはまたしてもドギマギ。私たちは彼女が興味を持つものに、次第に惹かれていきます。

風の芸術村 会員・随時募集中です。
詳しくは下記へお問い合わせください。


vol.193 えんぴつ・カフェ

人生これから!シンポジウム

2020年1月19日(日)14:00-16:00

各務原市那加福祉センター1階 集会室(予定)
参加無料

講演会「定年、そして10万時間の自由時間」
著者:上鵜瀬 孝志氏の講演会のあとは
いきいきシニアのシンポジウム

講師の上鵜瀬さんはこんな人。
今号のにらめっこ『熱中人』でも紹介しています。
上の新聞記事は10年前、「定年、そして10万時間」の出版が毎日新聞に大きく取り上げられました。

定年後にやりたいことはなんですか?

えんぴつ・カフェ

次回は、2020年3月7日(土)14:00~16:00    場所:にらめっこ編集室(各務原市蘇原新栄町3-15)

★みんなでワイワイおしゃべりしながら、「ゼロの昇天」の書き込みを中心に。お茶とお菓子 付き。  (準備の都合上事前にご連絡をお願いします。)

シンポジウム、えんぴつ・カフェのお申し込み、お問合せ:NPO人生これから!090-5638-7044 田辺   090-7854-4561 三上


vol.193 熱中世代 上鵜瀬 孝志さん

友だちは年金、定年後は楽しく、充実した人生を送ろう!

セカンドライフアドバイザー ウィ! エルダーマン代表 上鵜瀬 孝志さん

  いわゆる団塊の世代として生まれ育った上鵜瀬さん。第一次ベビーブームの昭和22年〜24年に生まれた団塊の世代は800万人を越す。小中高時代から常にひしめき合い、社会の中でも競争を強いられてきた。
 「定年が視野に入ってくるようになった50代、それまでの競争という価値観そのままで、地域や家庭に帰ったって通用しない。今から男性のネットワークを作っておかないといけないんじゃないかという思いがありました。それで「ウイ!エルダーマン」という活動グループを設立したんです」
 エルダーマンのキーワードは「驕らず、威張らず、腐らず」、「来る人拒まず、去る人追わず」。楽しくなければ人生じゃない!と言いながらも、実は楽しいだけではない。それまでの人生で得た技術なり経験を、社会のために活かす活動もする。社会に貢献し、人と繋がることで、それぞれが自分の存在意義を見出すという奥深い団体でもある。
 エルダーマンの活動は多岐にわたる。セミナーの開催、フリーマーケットに出店し売り上げを寄付、学校の余剰机をリフォームしベトナムに送る、懇親会(飲み会)、芝居、旅行…。仲間とともに様々な活動をする中で定年後の生き方について感じたことを書き溜め、一冊の本にしたのが、「定年そして、10万時間」だ。
 10万時間というのは定年後から男性の平均寿命までの時間。定年までの40年間会社に拘束されていた時間もほぼ10万時間。同じウエイトが定年後にかかることになる。しかも、人生100年時代などとも言われる昨今、10万時間どころか、もっと多くなることもある。その時間をどう使うのか。
 「仕事の関わりではなく、社会との関わりの中で自分の存在意義を確認できるかどうか。自治会のことをやるとか、ボランティアをやるとか、なんでもいい、それが豊かな人生に繋がっていくんじゃないかな。」と定年を機に価値観の転換を上鵜瀬さんは提案する。
 多くの同年代の女性は、子どもが手が離れた段階で価値観の転換をすでに済ませて、女性同士のネットワークもできているという。
 1つのアンケート結果がある。「定年後に旅行に行くなら誰と行きたいですか?」というもの。夫の1位は妻。それに対し、妻が夫と答えたのは6位。
「現実は、こんなにも夫婦間にズレがあるんです。夫婦といえどもそれぞれの人生、妻には妻の人生があるでしょ。親に育てられた子どもから学生までの時代、社会に育てられた会社員の時代を経て、定年後は自分で自分を育てる時代です。自分の人生だもん、妻に頼るんじゃなくて、自分で存在意義を見つけていこうよ」と語る。ただ、 そういう生き方をしていくには、友だちの存在が欠かせない。
 「友だちは年金って僕はよく言ってるんだけど、飲み友だちや趣味の友だち、そういう友だちが多いほうが人生はより豊かになるよね。友だちって、知人以上、親友未満というふうに僕は考えています。友だちのプライバシーや、過去にどういう仕事をしていたかとか、家族がどうとかという話は知らなくてもいいんです。その人がこれから何をしたいのかが大事。」
 退職した男性には、過去の実績や肩書きにとらわれ、そこにしか自分を説明するものがないという人も意外と多い。
 「それでは寂しいし、後ろ向き。そこから抜け出さないと誰も相手してくれなくなって孤立しちゃうよね。人に対して上から目線になりがちな人もいる。だけど、僕らの年代まで生きてきたら、どういう境遇であってもそれぞれいろんなことを乗り越えてきた実績がある。財産やポストの問題じゃなくて、その年までお互い生きてこれたねって話。いかに相手のことを尊重できるか、そこも大事にしたいよね。」
 「自然災害や病気、この先、誰だっていつどういう状況におかれるか分からない。ならば、一日一日を充実したものにできるといいよね。そうなると楽しいじゃない」。
 これからの時間をどう過ごすのか、それは自分自身が決める、のである。

かみうせ たかし
コピーライター、「イマージ」主宰。「ウイ!エルダーマン」ネットワーク代表。
広告代理店を経て独立。広告制作会社「(有)イマージ」を設立。2000年、団塊世代の男性を中心とした市民活動グループ「ウイ!エルダーマン」を設立し、各地で定年後の生き方などをテーマに講座やセミナーで講師を務める。
趣味は昭和の車(旧車)のカタログ収集と美味しいものを食べること。
名古屋市在住。
H.P http://kamiuse.com/

本の帯には「定年よ、大志を抱こう!」。本文にはダジャレやオヤジギャグが満載。難しくなりがちなテーマも楽しく痛快な語り口で綴られている。


vol.193 ボーダーレス社会をめざして vol.52

NPO法人オープンハウスCAN 理事長 伊藤佐代子

「くん」「ちゃん」って虐待?

 15年ほど前から、岐阜のスポーツクラブに通っています。がんになってからは、時間があれば優先的にスポーツクラブに行くようにしています。先日、そのクラブで「ちょっと聞いていいですか?」と声をかけられました。話を聞くと一升餅の話でした。孫が出来て娘の所に紅白の一升餅を送ったのだけれど、小さな子にお餅を背負わせる行為そのものが虐待にあたるかしら? 送ったのをすごく後悔しているとのことでした。
 一升餅とは、一歳の誕生日を祝い、一生食べ物に困らないように、これからの健やかな成長を祈る伝統行事で、風呂敷にお餅を包み斜めに背負わせ歩かせるようなことをするのです。地域によっていろいろあるようですが。私は、「それは虐待にはならないでしょう。紅白のお餅でしょ。そんな気遣いをして下さったお母様に感謝されるでしょう」とお答えしました。
 虐待のつもりなんて毛頭ないと思っている行為も一つ間違えば虐待と言われてしまうことがあります。それが、障がいのある人の呼び方です。○○くん、○○ちゃんなどの呼び方は虐待にあたるかもしれないと最近は言われ始めました。ちなみに息子に「ヘルパーさんにどう呼んで欲しい? あっちゃん・伊藤さん・淳司さん?」と聞きますと「淳司さんです」「あっちゃんではだめ?」「僕は41歳です。淳司さんがいいです」とはっきり答えました。何度聞いても変わりませんでした。41歳なのでと言われた時には、ギクリとしました。ちゃんと分かっているのだなとちょっとびっくりしました。
 平成24年に障害者虐待防止法ができ、当たり前のことなのですが、障がいのある方の気持ちを汲みとろうと多くの人が考えています。ご本人が嫌がっていなくても、「くん、ちゃん」とよぶことは虐待にあたる場合があります。見下すように○○ちゃんと呼んだり、○○くんは、明らかに年少者に対する呼称になり気をつけなければいけません。年齢にふさわしくない呼び方はどうなんでしょう?
 幸いにも息子からは、明確な回答を得られ、年齢相応に成長してきていることに正直感心するより、甘く見ていた自分を反省しました。しっかりと大人になっていました。呼称は、人格・人間関係をも示す大切なものであり、ご本人が一人の大人であり、それにふさわしい対応がされるようにと考慮する必要があります。ご本人、ご家族がどう呼んで欲しいのか教えていただき、周囲から見ても適切な呼び方、ご本人を尊重している呼び方を考えなくてはいけないと思います。


vol.193 ここいく日記 はじめの10歩!

未だグラグラ揺れる日々ですが…

 私と「いのちの授業」の出逢い、それは私が高齢出産のワンオペ育児で子育てに辛さを感じていた時でした。
「歳をとってからの子どもだから、甘やかして、我がままね」と後ろ指を指されないようにと必要以上に張り詰めていた時、「頑張らなくても大丈夫だよ」と優しく語りかけてくれたここいくのメンバー。
 その後、メンバー募集のチラシを見た時は、後先考えず「入りたいです」と言葉を発していました。少しずつ授業に参加するうちに、我が子の通う保育所に「いのちの授業」を届けたい。娘と同じ時期を過ごす子どもたちが誰にも被害者にも加害者にもなって欲しくない。生まれてきてくれただけで素晴らしいことを知って欲しいと思い、役員になり企画をしました。

 授業当日は、私は「セックスの絵本」を担当しました。
いつもより緊張しましたが、子どもの笑顔と真剣な眼差しに、子どもたちの吸収する力のすごさを感じました。
精子と卵子の出逢い、みんなはラッキーボーイ・ラッキーガールと伝えると、子どもたちの笑顔はキラキラ。こんな宝物がもらえる「いのちの授業」
 各務原市でもっと授業ができるようになるといいなぁ~といつも感じています。

 そんな娘も小4になり思春期のドアを開けようとしています。心と体の変化する時期。友達との関りに悩んだり、いつ来るか分からない月経に不安を感じています。思春期がやってくるぞと思うと、ドキドキ、ハラハラしますが、少し楽しみ。娘が生まれた頃の気を張っていた私とは違い「大丈夫」が心のどこかにあります。

 最近は「ここいく」の活動になかなか参加できず、辞めようかと何度も悩みました。でも「できる範囲でいいよ」と言ってもらい続けています。
いつか、自分の感じていることをつなげていける私になれたらと思います。

 「思春期はすぐに来るよ」と言われても、遠い未来だと思っていましたが、10年はあっという間でした。まだまだ甘えてくる我が子も、いつか離れていく。当たり前のことなのに、ずっと甘えが続く気がしていた。私自身もまだ「今」にグラグラ揺れる日々ですが、ここいくの先輩ママの姿を追いかけていきます。

 小さな人と過ごしているママたちに「いのちの授業」に出逢って欲しい。そして1日1日を大切にして欲しいと思います。

担当:ここいくメンバー・前畑かおるでした。
ここいく☎090-3446-8061(中村)


vol.193 第4回 菌ちゃん野菜交流会全国大会in岐阜

心と体をはぐくむシンポジウム プレイベント 
11月25日(月)13:00〜

 全国各地から「菌ちゃん野菜応援団」の方々が実践されている取り組みを発表。遠くは福岡、熊本、新潟、東京、長野、岐阜…地域に違いはあるものの、吉田俊道さんの「すべてのものに役割がある すべてのいのちと折り合おう」の考えをベースに活動をしている様子がよくわかりました。NPO法人や社団法人の方、農林水産部の「食と花の推進課」という行政の方の発表、どれも眼を見張るものばかりでした。中でも、行政の方が小学校や幼稚園に出向いて、「子どもたちの心と身体を育む、欽ちゃん元気野菜つくり」の発表にちょっとびっくり。官民一体となって「菌ちゃん野菜つくり」に取り組むことは、私たちの目標でもあるので先駆的例としてしっかり胸に刻みました。
 どの地域でも、子どもの反応はとっても素直。菌ちゃん野菜作りの仕組みがわかれば、子どもは家族に話すでしょう。するとおかあさんやおとうさんたちが考える。それが暮らしを振り返るきっかけとなる。交流会では「未来は大人が守らなきゃ!」という吉田さんのメッセージを受け止め、改めて共有できたのではないかと思いました。(三)

講評:吉田 俊道氏

菌ちゃん野菜つくりの効果

 菌ちゃん野菜つくりは「すべてのものに役割がある」という考えがベースにあります。子ども達に命の大切さとを伝える時に、「世の中にいらないものなんてないんだよ、全部大切なんだよ」っていうことを、菌ちゃん野菜つくりを通じて伝えられることに先生が気づいたんですね。久留米の方では小学校で結構広まっています。この地球にいらないものなんてない。ぜ〜んぶ意味があってそれぞれ助け合ったり、ときにはケンカすることもありますが、折り合いをつけて生きてるんですね。

菌ちゃん野菜つくりにはもう1つ大事な目的がある

 それはこの社会をかえること!あと一年と数ヶ月の間に何もしなかったら、もう取り返しのつかないところまで来そうだってこと、気候変動はどうもCO2のせいだ、ということをみんな気付き始めてます。スェーデンではグレタさんを筆頭に毎週金曜日に子どもたちがストライキをする。「将来のために勉強しろよ!と言っても子どもたちは「えっ?私たち将来あるんですか?」って。

 なんでCO2がこんなに増えたか。原因は農業なんです。昔は地球の表面にはいっぱい生き物がいた、それが炭素です。残念なことに今は除草剤や化学肥料、農薬や土壌殺菌剤をかけたりして土が痩せどんどん砂漠化して、炭素がCO2を固定化(※)できなくなっている。それがこの温暖化の原因の4割くらいと言われています。昔の農業は、自然界をうまく活用していたね。土の中は微生物だらけになって、虫も増え、小動物も増えて…それで温暖化の4割は解決できるんですよ。

 そして、あとの6割の原因は石油。石油が地球温暖化を作ったと言われていますが、それをたて直すことができるのも実は農業なんです。FAO(国連食糧農業機関)は炭を畑に入れれば、世界中のCO2を回収できることをすでに発表しています。そうすることで理論上は5年未満で地球温暖化は止まるってわかっている。さらに発酵力が強まって、いろんな菌が入ってくる。微生物と共生するこの「菌ちゃん野菜つくり」が世界中に広がったら、CO2問題はかなり解決できるってことを、子どもたちに教えてください。

 「循環型共生社会」と言いながら、今は循環も共生もない。このまま未来がなくなっていくかもしれない。そんな中で地球のかけがえのない生き物たちの役割をもう一回考え直してみる。教えるのではなくて子どもと一緒に考えることができたら、子どもたちが大人になった時に、今の社会の矛盾に気付いて、社会を変えていく人たちになると思ってます。未来は私たちが守るしかないんですね。   (文責・にらめっこ)

※炭素固定(たんそこてい、英: carbon fixation)とは、植物や一部の微生物が空気中から取り込んだ二酸化炭素(CO2)を炭素化合物として留めておく機能のこと。 この機能を利用して、大気中の二酸化炭素を削減することが考えられている。 同化反応のひとつ。


vol.193 菌ちゃん野菜応援団 vol.14

 先日、「菌ちゃん野菜応援団 東海支部」と「つくろ!の会」の共催で2日にわたりちょっと大きなイベントを開催しました。お越しいただいた方も多かったと思います、本当にありがとうございました。2日目のイベントのなかで講師の方が二人とも「このまま何も手を打たなければ地球環境は1年半で手がつけられなくなる、というのが世界の公式発表です」とはっきり言われました。
 ではそのために私たちが何ができるかというと、一番簡単なのが大地を微生物でいっぱいにすること、という話をされました。農地から微生物がいなくなったが為に二酸化炭素が吸着されなくなり、地球温暖化が加速した。では農地をもう一度微生物でいっぱいにすればいい。そのためのノウハウは菌ちゃん野菜作りのなかにすべてある!と力強く仰ってました。それを受けて各地で人が立ち上がり始めました。

 ある地域では「では、はじめの一歩として耕作放棄地に草を入れよう!そこで野菜を作って地域活性化もしちゃおう!」という動きがおきました。
つくろ!の会に要請が来たので、早速大量の草を畑に運びみんなで畝に下ろして土をかけてマルチを張って。ちゃーんとおまじないもしましたよ。この畝はすこしづつ増やして春には野菜を植え付けます。

 耕作放棄されていた土地に微生物が増え、春からは野菜の命が育まれる。それが私たちの地球を救い、地域の活性化にもつながる。
こんなわくわくすることがあるでしょうかー!!!

みなさんもぜひ、ご自分の手の届く範囲でやってみませんか??


vol.193 半農半X vol.34

 10月半ば、台湾・高雄の美濃(メイノン)という美しいまちから綾部訪問がありました。大型バスで約30名、縁あって、わが村を訪ねてくださったのでした。里山ねっと・あやべがおこなってきた「綾部里山交流大学」では、都会からの参加者と、「里山・村散策」をおこなっていて、とても好評です。今回、台湾の一行をお連れしたところ、大変喜んでくださいました。季節はちょうど秋のいい季節です。たくさんの質問をいただいたなかで、特に印象的だったのは、「たくさん柿が生っていますね。なぜ柿をとらないのですか?もったいないです」というものです。昔は日本でも柿をたくさんとっていたけれど、いつしかあまり食さないようになってしまいました。柿は「眠れる地域資源」の最たるもののような気がしています。活かすアイデアをみんなで出し合えたらいいですね。

お地蔵様と一本檜

 子どものころから村にある「お地蔵様と一本檜」の風景にひかれてきました。15年ぶりにUターンしたとき、都会の友を連れてきたら、とても気に入ってくれました。村人にとってもここはこころの風景です。都会の人も村人もみんな好きな風景というのがあるのですね。この地は昔の塚が多くて、「八塚」という地名です。すこし先には産土の神社があり、田んぼの中には、古墳がいくつか現存し、お地蔵さまもあります。それらを結ぶラインの先には、その昔、行基が霊気を感じて寺を創建したといわれる地もあります。それらが一直線に並ぶのです。私はここを村のパワースポットと呼んでいます。ほんとうに何気ない村
の風景ですが、もしかしたらここはすごい場所かもしれません。ときどき、里山散策で都会の方をお連れし、喜んでもらっています。

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塩見直紀(しおみなおき)半農半X研究所代表
1965年、京都府綾部市生まれ。20年前から「半農半X(エックス=天職)」コンセプトを提唱。半農半X本は翻訳されて、台湾、中国、韓国にもひろがる。著書に『半農半Xという生き方 実践編』など。

※半農半Xとは・・・半農は環境問題、半Xは天職問題(どう生きるか)を背景と する。持続可能な農のある小さな暮らしをベースに、天与の才を社会に活かす生き方、暮らし方。ex.半農半漁、半農半大工、半農半看護師、半農半カフェ、 半農半絵描き、半農半歌手、半農半鍼灸師、半農半カメラマンなどなど。


vol.193 未来に続く暮しの学びPrt-34

オーストラリアの山火事で感じること。

異常に長引く“乾期”に猛威を振るう山火事

 この6ヶ月間、まとまった雨が降っていないところへ、山火事が発生しています。新聞やニュースでご存知の方も多いと思いますが、かなり広範囲でいまだに燃え続けています。
ここバイロンベイは亜熱帯気候なので、熱帯雨林が国立公園として守られています。でもこの過激な乾期のおかげで、熱帯雨林でも乾燥しすぎて火事が発生するほど。各地域では、一時避難警告がだされ、家から離れなければいけない家族もたくさんいました。バイロンベイでは節水と、水量使用制限などの規制がだされ、市内に住んでいる人たちも、節水を強いられています。私たちの土地では、雨水を集めてまかなう仕組みなので、完全に水不足になり、4日ほど断水状態が続きました。いまは、地下水を汲み上げて、施設内の水はまかなえるようになりました。このような異常事態を経験すると、あらためて”水” がどれだけ自分たちの生活に関わっているかを実感します。自分だけではなく、この国全体で、体験しているようです。

 全ての生き物が生きる上で、最も重要な水。だから、細かな部分までにも神経を使って常に「命を育む水」を意識して、無駄なく使いたいもの。いやそうしなければいけない。危機をとおしてしか、学べない人間の未熟さを感じながらも、これをきっかけに、水に対しての意識が高まり、水は人間だけのものではないという意識も伝わるといいなと思います。

 樹齢を重ねた木々、食卓を潤してくれる畑の野菜や植物、動物、爬虫類、昆虫類などなど生あるものには欠かせないものであり、あらゆる生き物と水を共有しているのだという意識が大事。日常生活もそんな思いで水を使えるようになるといいなと思います。
 火事は少しづつ収まってきていますが、まだまだ目が離せない状況です。収束に向けてこの地域では、レインダンスを呼びかけて、みんなの意識が雨を呼ぶことに集中しています。
雨期はもうすぐの、、、はず。。。動物も、人間も、植物も、みんな雨を待っている。

自然の猛威になすすべもなく…私たちもその自然の一部。


vol.193 夢か悪夢かリニアが通る!vol.22

「水枯れ」経験した掛川

 南アルプスを愛した山岳写真家、白籏史朗さんが11月30日、86歳でなくなりました。5年前の2014年9月、白籏さんがリニア中央新幹線建設に反対する集会で講演する様子が動画投稿サイトYouTubeで公開されています。白籏さんは「気持ちが非常に落ち着く、包み込んでくれるような山地」と南アルプスの魅力を語り、リニア南アルプストンネル計画について、「トンネルを掘るということで、地下水の流路がどのように変わるかということが非常に心配。森林に相当大きな被害が出るのではないかと思います」と警鐘を鳴らしています。「何か工事すると金が絡む。金が絡むとつい巻かれてしまう人もいる。それによって自然は荒れ、地下水は枯れ、生物は減ってしまう。悪循環なんですね」。その言葉は、長年にわたり山々の襞を分け入って歩き続けた白籏さんの実感だったのでしょう。   井澤宏明・ジャーナリスト

60万人の生活用水

「一番頼りになるのは、水を利用している方々に『命の水』だと声を挙げていただくこと」と訴える難波副知事

 静岡県掛川市で12月3日、「掛川の水について考えるシンポジウム」が開かれました。平日の昼間にもかかわらず会場の市生涯学習センター大ホールには約500人が詰めかけました。リニアの南アルプストンネル建設で大井川の水が減る問題を受けて、身近な水について考えてもらおうと市が主催したものです。


 長年、水不足に苦しんできた掛川市には県内の3分の1に当たる200以上の「ため池」が作られ、毎日の水くみが大変なことから、「水のない掛川には嫁をやるな」と言われたという悲しい歴史があるほど。現在、使用量の9割を大井川の水でまかなっていますが、大井川の渇水により、最近では昨年12月から今年5月まで147日間も節水対策を行いました。
 同市には苦い経験があります。新東名高速道路の粟ヶ岳トンネル掘削工事で2000年5月、地域の水道の水源だった粟ヶ岳中腹の湧水が枯れてしまったのです。
 パネリストとして参加した富士東製茶農協の平井文男組合長は、年間収入の7、8割を得る「一番茶」シーズンに水が枯れ、製茶に必要な水を給水車で運んだこと、その後、中日本高速道路(ネクスコ中日本)の補償で上水道が整備された(水道料は30年分のみ補償)経緯を振り返り、こう語りかけました。

約60万人分の水をまかなう大井川。その影響範囲は広大だ(配布資料より)


 「お風呂のふたを開けて湯気が出てきたとき、今のカルキ臭がする水に最初は慣れることができなかった。本来のおいしい山の湧き水を飲んでみたいという思いがあります」
 ネクスコが工事前に、「水は枯れない」と地域の先輩たちに説明していたこと、水枯れ発生当初は、「因果関係は調べてみなければ分からない」となかなか話し合いにも応じなかったことを挙げ、「JR東海は(大井川の減水について)色々数字等を言っているが、本当にそれが正しいのか。(水枯れの経験があるので)信用できなくなっている」と訴えました。

「県民共有の財産」

平日にも関わらず多くの掛川市民が詰めかけた「掛川の水について考えるシンポジウム」

 基調講演を行った静岡県の難波喬司副知事は、JR東海が推計している大井川の毎秒2トンの減水量について、「大井川の水を利用している約60万人の生活用水がそっくりそのままなくなるということ」と解説。JR東海が「原則として、湧水の全量を大井川に流す」と表明したのは昨年10月、減水を公表してから5年後のことでした。
 ところが今年8月になって、「先進坑がつながるまでの工事期間中、山梨、長野両県へトンネル湧水が流出する」ことをJR東海は明らかにしました。静岡・山梨県境には地下水をたたえた「畑薙山断層」があることが分かっています。難波副知事は、映画「黒部の太陽」を例に挙げながら、「断層の水が枯れるまで出し切って、それで工事が再開になる。1年間ここから出た水は全部、山梨側に流れる。それでも大井川水系の水は減らないと言っている。まったく理解できない」とJR東海を批判、議論がこう着状態にあることを伝えました。
 さらに、「水循環基本法」などを紹介して、「トンネルで出る水はJRの水じゃない。県民共有の財産を、よそに流す権利はどこにもない。ここはどんなことがあっても我々は譲れない」と決意を述べ、利水者の応援を求めました。




vol.193 緊急特集 中村 哲さんを悼む

中村 哲 なかむら てつ
ペシャワール会現地代表。PMS総院長。1946年福岡市生まれ。九州大学医学部卒業。国内の病院勤務を経て、1984年パキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任。その後、東部アフガニスタンへも活動範囲を拡げ、ハンセン病や結核など貧困層に多い疾患の診療、農村復興のため水利事業に携わる。

なぜ、どうして……、
ペシャワール会の中村 哲医師が死去

 12月4日、アフガンで支援活動を30年以上行なってきたペシャワール会の中村哲さんが武装集団に銃撃され死去された。友人からのメールでそのことを知った私は、驚きととともにその事実が信じられなかった。政治、思想をこえてアフガンの現地で救援活動を行ってきた中村さんは、戦乱とは関係なく、現地の人々の尊敬と支援を集めて黙々と活動してきたのである。その中村さんが標的となり死去したのである。
 ペシャワール会は1983年に中村哲医師の活動を支援する目的で結成された日本の民間支援団体です。パキスタンのペシャワールから始まった医療活動はアフガニスタンにも拡大され、医療活動とともに生命の根源である「命の水」を求めて井戸掘り、カレーズ(伝統的な地下水路)の修復活動へと進展しました。また、アフガン戦争では空爆の下で食料援助を実施しました。
 2000年の大干ばつから続く干ばつの影響、戦乱による治安の悪化によってアフガンの国土は荒れ、多くの難民が生まれました。中村さんによれば、報道されるのは戦乱のようすばかりですが、アフガン荒廃の根本的な原因は継続する干ばつの影響です。当初行なっていた医療活動から、命の水を求めての飲料水源確保事業から(掘った井戸は現在1600)、「緑の大地」計画のもと2003年から砂漠化した大地を緑の農地にするために用水路の建設が始まりました。用水路によって荒廃した大地に緑がもどり、ふるさとに帰還した難民は約15万人と推定され、その水利事業によって現在約65万人の人たちの生活を支えています。
 そんなペシャワール会の活動を支えているのが約2万人(会員・寄付者)の日本人の真心です。民間による支援活動ですが、その活動はすでに国家的な事業といえるほどに成長しており、その活動の根源は現地の人たちと中村哲氏の強固な信頼関係にあります。当たり前のことですが、現地の人たちの思いにそった、アフガンの人たちのための支援活動です。いまだに戦乱は治まらず、治安悪化のアフガンにあって、用水路建設、農村復興が進むアフガン東部、クナール川流域は暗闇の中の光明です。医療活動から井戸掘り、そして「緑の大地」計画による用水路建設、農地の確保、「命の水」は「平和の水」となってアフガンの国土を潤す。ペシャワール会の活動はすでに30余年、武力によらない真の積極的平和主義を実践してきたのがペシャワール会、中村 哲医師でした。
 なぜ、どうして中村さんが狙われたのか、アフガン国内の混乱を狙った武装集団の正体、思惑が私にはまったく理解できません。ただただ驚きと悲しみでいっぱいです。日本に帰る中村さんの棺をガニ大統領が担ぐ報道写真を見て、アフガンの人たちとともに涙があふれてきました。
 08年にペシャワール会の現地スタッフであった伊藤和也さんが殺害される事件があったが、「私たちペシャワール会は、変わらずに事業を継続して、皆さんと苦楽を共に致したいと思います……皆さんの協力と要望がある限り、ペシャワール会の活動をやむことなく継続されることを誓い、弔辞と致します」と中村医師。
 中村さん死去という大きく深い悲しみを乗越え、今までの活動を変わらず継続していくことが残された私たちのつとめであろう……ただただ合掌。

(新年になったら、中村哲医師追悼の集いとペシャワール会の報告会を計画したいと思っています)  
黒野こうき(岐阜ペシャワール会を応援する会・代表)

記憶に残る中村さんのことば

「憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすこと誓う」
伊藤和也さん(ペシャワール会スタッフ)が2008年に殺害された時の追悼の言葉。

「100の診療所より1本の用水路を」

「誰もがそこへ行かぬから、我々がゆく。
 誰もしないから、我々がする」

「戦争協力が国際的貢献とは言語道断である」

「9条がリアルで大きな力だったという現実」

2016年5月27日 各務原市民会館大ホールにて ペシャワール会は、パキスタンでの医療活動に取り組んでいた医師の中村 哲を支援するために1983年に結成された非政府組織。



vol.193 プレゼントコーナー

1- あなたは、2020年をどんな一年にしますか?
どんな一年を送るのか、あなたの決意を聞かせてね!
2- 気になるにらめっこ紙面での広告
3- 気に入った記事、気に入らない記事のタイトル1つ・その理由もお書きください。
4- ご希望のプレゼント名 (第1希望・第2希望)
 ※A、B、Dは編集室まで受け取りに来られる方。
5- 本紙をどこで入手されましたか?
6- 氏名、年齢、住所、郵便番号、電話番号、  家族構成

プレゼントご希望の方は

ハガキまたはe-mailで、上記のアンケートを
1〜6までご記入の上、編集部・プレゼント係りまでお送りください。
〆切:2020年1月27日 当日消印有効。

宛先
〒504-0855 各務原市蘇原新栄町3-15
e-mail: info@niramekko.com
※お寄せいただいた個人情報は、本紙プレゼントの発送に限り、 使用させていただきます。
※当選の発表は発送をもって代えさせていただきます。

A.九条ボールペン  

にらめっこより…5名様

日本が戦争を永久に放棄し戦力を保持しないと定めた第9条を含む日本国憲法。改憲に積極的な今の日本の政権。あなたは改憲に賛成?反対?どう思う?難しいと構えないで、身近な人とどんどん対話してみて。まずはこのボールペンでネタ振りってどうでしょう。にらめっこ編集室でお受け取りください。

B.ペアコーヒーカップ

にらめっこより…1名様

葉っぱがモチーフの藍色の柄がシックでおしゃれなペアのコーヒーカップ。寒い日には温か〜いコーヒーでほっとひと息、ブレイクタイム。そんなひとときをあなたは誰と過ごしますか?にらめっこ編集室でお受け取りください。

C.CINEX映画招待券

シネックス様より…ペア3組様

優れた映画作品は時代考証などもしっかり、まるで映画作品の時代へタイムスリップしているかのよう。観ているうちに主人公とその時代を共にする、そんな一体感は映画館ならではかも。写真は「カツベン!」より。招待券は柳ヶ瀬のCINEXでご利用になれます。

D.アルベルベッロのマグネット

にらめっこより…2名様

南イタリア、プーリア州アルベロベッロには、石と漆喰で作られたトゥルッリと呼ばれる伝統的な家屋が多く残ることで知られています。世界遺産として登録もされているこの町をデザインした小ぶりのマグネットです。サイズは約5センチ×7センチ。にらめっこ編集室でお受け取りください。