「いのち」の背景を考える
写真家・映画監督 大西 暢夫さんに聞く
『ぶたにく』 著:大西 暢夫
お米や野菜は、どうやって育つかを知っている。でも、ぶた肉がどうやって食卓へあがるのかは知らない!鹿児島市にある知的障害施設が舞台。そこでは障害をもつ方たちが、とても大切にぶたを育てている。ぶたの餌は小学校の残飯。私たち人間が残したものをぶたは食べ、10か月で出荷され、ぶた肉となる。その繰り返しで、我々は生きている…「いのち」「食」を学ぶドキュメンタリー写真絵本。 A4変形版 幻冬舎
動物のいのちを考える
ー『ぶたにく』。ずいぶんストレートなタイトルですね。
はい、直球ですね。かわいい黒豚が表紙で裏表紙がソーセージ。さらにこの本には屠殺場も出てきます。最初かわいい豚さんで始まるのに、最後の方に枝肉がダーって吊るされているシーン。すると子どもたちは大興奮するんですけど、親はそれを見せるかどうかっていうので賛否両論が結構ありました。そして、次の展開ではついこの間産んだばかりのお母さんブタが、またタネをつけられ、また子豚が生まれるっていう話で終わリます。
実はそこまでの過程がとても大事なのだと思っています。僕は今まで豚と出会うことがなかった。牛は牧場で見かけるけど豚は豚舎。だけど豚って可愛いし、結構アイドルでいいキャラしているし。でも、豚って何者?って思うくらい全然知らなかった。
僕たちはどれくらい成長した豚を食べているか知らないですよね。みんな子豚なんですよ。8ヶ月とか10ヶ月の子豚。柔らかくて美味しいからって。それを知った時は結構ショックでしたね。
養豚場にはいろんなルールがあるんですね。いつごろ、何匹生まれるとか、体温が37度、お乳の数と生まれてくる数はほぼ一緒でだいたい満月の頃に生まれる、全国で毎日6万頭潰して、さらに毎日7万頭輸入しています。売り切れがなくどこでも売ってる・・・そういう数字をベースに本を作ったんですね。
全て人間の都合で命を操作している。そういう背景を知って愕然としました。取材先である鹿児島のゆうかり学園という社会福祉法人は、豚に残飯を食べさせて10ヶ月で出荷しています。
残飯は老人ホームや小学校、コンビニからパン屋さんを回ります。するとポリタンクが10箱くらいになる。で、その残飯には、豚肉やソーセージとかが入っている。ブタが豚を食べる・・・命を育てているのか、食べ物を育てているのか、わからないサイクルがあって、僕たちは、一体何を作っているんだろって、頭がこんがらがっちゃて。
毎年、池田町の八幡小学校で講演をするのですが、「ぶた、見たことある?」って聞くと、見たことがない子が多いんです。「豚肉は美味しいけどお腹いっぱいだからポイッと捨てたけど、その豚肉が豚の餌となってまた肉になって給食のおかずとなって戻ってきているってどう思う?」と投げかけてもいます。
ー豚をペットにしている人もいます。ぶたはきれい好きだそうですね。
においは動物ですから多少は漂いますが結構可愛いですから豚をペットにする人もいるでしょう。ということはペット用に育成して大量に繁殖するという背景を考えて欲しいと思います。例えば、チワワ。CMで人気が出て爆発的に増やした。それでどれだけのチワワが捨てられたことか。どれだけいのちが操作されているか、ブームの背景を読み取らないとね。
僕らはホームセンターや大型マーケットにあるようなペットショップという形態で動物を売るという方法をなくした方がいいと思っています。プロのブリーダーが、保健所の犬を扱って、かっこよくして、そこで売ればいいのにと思う。ただ犬種がみんな雑種!とかなるかもしれないけど(笑)。あの子たちは本当に可愛いですから。殺処分に関して岐阜県はまだまだですね。滋賀県はやめたし、広島はゼロです。
うちのハナ(柴犬)も保健所で目があっちゃったんですよね。保健所の片隅にいてね、静かで吠えないんです。吠える人には吠えるけど、好きな人には尻尾振って・・・だけど保健所の人が、「この犬はすごい凶暴ですから気をつけてください。最初にちょっと散歩をしてみますか?」そう言って、引っ張ると固定される紐を首に入れてぎゅっとするとワーワーワンって怒るんですよね。「こいつはこうやってはむかって」って言うんですが、そんなことされればどんな犬でも怒るでしょ。
家に連れてきた日かな、撫でていたら突然がぶって僕の手を噛んだんですよ。やや甘噛みだったのですが、血が出たんで「ハナ痛いよな」って目を合わせて言ったら、血の出ているところをぺろぺろなめ始まるんですよ。それからのハナは僕と取っ組み合いの喧嘩しても平気です。
ところが、前の飼い主は、孫にすごい勢いで噛むと言うんですね、孫が棒で殴ったらしいんです。それから首輪が変えられないくらいもう凶暴になって、危ないからと保健所に連れてこられた。結局そこに愛情があるかどうかの話ですよね。しかも子犬を産んだ後に、です。ハナは自分の子どもたちとも別れ、ボコボコにされて、死のギリギリのところまで行って、「ちょっと待った」と声がかかった。ラッキーですけど、彼女の背景にはそういうすごい辛い体験があるんです。
たくさんの小さないのちを考える
糸は繭から紡ぐのですが、綿は引っ張って作ります。滋賀県の米原と長浜の話。この地域では<棚がい>という古くて珍しい昔の飼い方で、藁で飼っています。これも実はいのちの話につながっていくんですが、彼らは「虫供養」というのをきちんと行います。例えば一つの掛け布団を作るのにおよそ3,600個くらいのお蚕さんの命をいただいているわけです。ついこの間までお蚕さん(養蚕業)は盛んで生産量が世界ナンバーワンで日本で唯一の輸出品目だったのですが、今はお蚕さんという存在自体わからなくなっています。蚕糸協会に他県の養蚕農家が取引にやってきます。それくらい近県に市場がないんです。年に一回だけ美濃加茂で取引が行われています。
僕たちはたくさんの小さないのちを身にまとっているんです。それはお蚕さん自身がくるまって温まっている暖かさなんですね。(取材中、お借りした真綿の膝掛けはとても軽くて暖かかった)人が加工したものの中に、このいのちあるお蚕さんたちのあったかさがある、という話です。子ども達にとっては、いのちあるものから糸ができるなんてことすら想像ができない、そこからがスタートで書いた本です。
『お蚕さんから糸と綿と』 著:大西 暢夫
お蚕さんを育て、その繭から糸を取る。それが生糸になり、真綿にもなる。滋賀県で養蚕業にたずさわる人々の姿から、人間本来の生活の営みについて伝える。2020年1月中旬発売 B5変形版 アリス館
ー今は石油製品からできる人工的なもので包まれていますね。ナイロン、フリース、ポリエチレン、ポリエステルなどなどですが、静電気が起こり体にもよくないですね。
ものが簡単に手に入る時代。インターネットでも、ポチッと押せばもう翌日に送られてくる。製品が作られるまでの過程をポンと飛び越えて。下手すればネットで犬、猫に限らず生きものさえ買える時代。それまでに生きてきた動物の背景なんて知らなくてもいいわけですよね。そこが今「いのちを大事にする」という中で足りないものですよね。出会うまでの過程がないからだろうなと思う。
ー過程が省略されているから、元の形を知らない。日常の、食べ物、身に纏うものの背景を知ることがとても大事なんですね。ちょっと広げてみたときに、棲む場所を失う野生動物、実験に使われいのちを落とす動物たち、被災地の動物たち、そういう動物たちに日常の中で少しでも思いを馳せたいと思うんですが…
そうですね。いのちがもっと生活の中の近い場所にあればいいんだけど、そういうものがかなりバーチャルになってきていて、実感がないというか。実際、こういう子(大西家の保護猫)を触ったり抱っこしたりすることで、温もりを感じたり、死んだら生き返らないことを実体験することはバーチャルではできません。(大西家には保護猫が4匹と、前述した保護犬・ハナがいます)生き物は死ぬということ、生き物を看取るということ、そういうことが次に繋がり、また次に動物と向き合うかどうかということも考えるでしょう。
ー生きものと切っても切れない関係にあるにも関わらず、みんなあまり意識をしていない感じがします。
意識していたら多分殺処分なんかないでしょうね。そいうところに連れてくるのは飼い主の身勝手。さまざまな事情もあるでしょうが、保健所に連れて行くというのは最終決断じゃないですか。でもそれほど考えずに持ってくる人が多いだろうなと思います。たとえ最終でも保健所へという決断はないでしょう。葬っちゃうわけですから。
ー『ぶたにく』に関連しますが、鶏を飼い卵を売って資金にしているある福祉施設では、卵を産まなくなった鶏をどうするか議論になりました。子どもたちが世話をして最終的に肉にするのはどうかと。結局私たちは日常的に鶏肉を食べています。そこに触れずにその過程を避けているという気がします。
そういう中でちょっと動物に対して、隙を与えるというか、そういう生き方だってありだよなって、思ったりするんです。
ー隙というと?
動物が生きやすい場所というか、そういうところがあってもいい。昔は野良犬がいっぱいいた。今だとすぐ保健所に電話する。それは街をきれいにしていくという言葉に似たようなところがある。僕は精神病院の取材を長くやっていますが、変わったおっちゃんたちが排除されました。そういう変わった人たちを町から排除したりとか、犬だって、動物たちだって同じようなもので、住みかのない子たちは駆除という名目で役場に連絡して捕獲されることと、構造的には結構似てる話だと思います。犬と人間を一緒にするのは違和感はありますが、考えるスタイルとすれば、排除するという感覚が似ていますね。
私たちのいのちを考える
ー排除という言葉、ヤマユリ学園の殺傷事件では生産性がない、生きていてもしょうがない、と多くの方が殺されました。
関わってないから、知らないからだろうなって思います。実は東北のるんびにい美術館(アール・ブリュットの美術館)で僕の写真展が開かれています。タイトルは「いのちの姿、あなたの形」。重症身体障害者で動けない、喋れない、立てない、ないない尽くしの方達ばかりでいわゆる生産性のない人たちです。ずっと悩んでいたテーマで、10年間岩手に通って撮影してきました。
人はこの人たちを見たときにどう思うか、その背景を考えないで漠然と彼らを見たときに、「なんや、なんもできへんやん」だけで終わってしまう。
彼らを撮るとすごく絵になりやすいんです。へんてこりんな形をしてるし。だけど、絵になると写真ってつまんない、という僕の持論があって、「彼らの何が撮りたいんだ」と突き詰めたときに、彼らのことが「わからなかった」わけです。それで、「わからない」っていうことをテーマにしようと思った。そのときに初めてこの車椅子と出会ったんです。ボコボコしているし誰が座るか想像がつかない超オーダーメイドの車椅子。これを作る人たちって誰?と思って、会津若松の職人さんのところに行きました。
そこでは作業療法士らとタッグを組みながら、「こんなに変形しているけどどうしたらええか」と、ず—っとその人を見て職人さんたちが悩むわけです。リハビリをする人たちも、ずっと悩んで仕事をするわけですよね。リハビリの哲学みたいなものの中には、やっぱり歩くこととか、元の機能に近づけるとかがあるけれど、この人たちには全く通じない話なんですね。もともと歩く機能がないわけだから、歩かせることをリハビリと言わないわけです。だけど踏ん反り返ったこの角度は辛いんじゃないかと疑問を持つわけです。あーでもない、こうでもないと断定をしない仕事ばかり。仕事は断定して即決して効率が求められますよね。それとは真逆で、彼らは断定しないんです。
ー考える軸をどこに当てるか、ということでしょうか
「この人はどうやったら立つんだ」というのが僕の見方でした。それはこの人にとっていいか悪いかではなく、僕の都合だったんですね。この人たちと出会わなかったら、そういうことを考えることはなかったでしょう。だからこそ、この人たちのいのちは大事だと思ったんです。僕がこのことに対して考えなきゃいけないから。そしてそこに、「わからない」を形にする車椅子を作る職人さんたちがいた。その職人さんたちの阿吽の呼吸で、車椅子はでき上がっていくんだけど、福祉的な議論というよりも、どうやったらこの人をうまく座らせることができるかなと、職人さんたちが頭をひねるわけです。僕はそこに一番の愛情を感じたんです。
で、職人さんたちが、「彼らのことがわからない」とよく言うので、その「わからない」という言葉を表現したいがために、彼らを撮っているという感じでした。そういう中で、彼らの存在がなぜ必要なのか、ということに行き着いていくんです。それは多分、出会って知って考えること。彼らが存在するからこそ考えたことは山ほどありました。それらが一つの基本ベースとなれば、いろんなことに応用できるのではないかと思っています。
おおにし のぶお●プロフィール
写真家、映画監督。1968年東京生まれ。岐阜県揖斐郡池田町で育つ。東京綜合写真専門学校卒業後、写真家の本橋成一さんに師事。アシスタントをするあいまに、ダムに沈む岐阜県徳山村の取材を独自に開始する。独立後も今に至るまで全国を巡りダムに沈む村を追い続けている。そのほか精神科病棟、東日本大震災被災地、いずれも終わりのない長期取材を続けている。
映画監督作品に「水になった村』『家族の軌跡 3.11の記憶から』『オキナワへいこう』
著書に「ひとりひとりの人」「糸に染まる季節」「津波の夜に 3.11の記憶」など。