vol.193 「ズッコケ三人組」平和を語る

1978年にシリーズ「ズッコケ三人組」が始まり、2004年に50巻に。2500万部という戦後のベストセラーになった。2005年からは40歳になった三人組のシリーズが始まる。

児童文学者 那須 正幹さん

なぜこの本が子ども達に支持されたか

 小学6年のハチベェ、モーちゃん、ハカセという3人が、それぞれの特徴を生かして事件を解決する物語で徹底した娯楽小説です。それが受けた理由じゃないかなと思っている。ただ、戦争のことだけは取り上げなかった。もしこの3人が、太平洋戦争の時に国民学校の生徒だったら、ハチベェのようなおっちょこちょいがうろちょろすると先生から目をつけられてマークされる。モーちゃんみたいにスローな子は配属将校にお尻を蹴飛ばされるだろうし、ハカセみたいな理屈屋は、「先生、戦争は間違っているんじゃないか」と言って特高に睨まれる…裏を返せば、この3人がこれだけ元気に駆け回れるのは、日本が平和で民主主義の国だからこそ。そう考えて、この50巻では一切戦争について書きませんでした。

わたしの原体験

 では私自身は戦争に対して全く無関心だったかというと、実は他の本では取り上げています。わたしは1942年6月に広島市の西区己斐本町で生まれ、3歳の時に被爆しました。私の家は爆心から直線距離でおよそ3キロ。爆発の瞬間に、爆風で我が家の屋根が吹き飛びました。その後、雨が降ってきたので押入れの中で雨宿りしながら当時の国民学校の一年生の国語の本を眺めていた。巻末に桃太郎のお話が載っていた。天然色というか、綺麗な色がついていたような記憶がありますね。そして午後になると、市街地から被爆した人が逃げて来られました。全身灰色で、髪もパーマをかけたみたいにチリチリでまるで人形がフラフラ歩いている…怖いというよりあっけにとられていたという記憶があります。さらに夕方になって大八車に缶詰を山積みにしたおじさんが、「水を飲ませてくれ」と言ってきたので、我が家の井戸水をあげたら、お礼にみかんの缶詰を一つ開けてくれた。それが火傷するくらい熱かった。それをフーフーしながら食べた。この記憶だけは77歳になるのにいまだにあります。

子ども心にも「変だ」と思う出来事

 私の父は当時女学校の教師をしており、爆心地から10キロほどにある学校の職員室で被爆し頭と背中に怪我をしました。ある時、父親が家族会議を開こうと言い出した。その時に憲法の話もしまして、「これからの日本は戦争をしない」と。これは子ども心にすごく嬉しかった。父親は79歳で死んだのですが、遺品に「憲法入門」という本が出てきて、中にものすごく画期的なことが書いてあるんですよ。当時の大人たちは、新憲法というのを勉強していたんですね。
 私が小学校2年の時に、朝鮮戦争が始まりました。日本には警察予備隊という軍隊まがいのものができました。あれよあれよという間に保安隊と名前が変わり、6年生の時にはいわゆる自衛隊となった。
これには流石におかしいなと思いましたね。で、友達と学校帰りに、「ほりゃおかしいぞ!日本は戦争をしないといっているのに、軍隊を持たんことになっているのに、なんで自衛隊ができるんだ」って。友達も「そうだそうだ」、「今の大人は信用できん」、「あいつらが戦争をはじめたんだ」、「わしらが大人になったら自衛隊ぶっ潰そうぜ!」「一緒にやろう!」って、息巻いていた。
 残念ながら自衛隊をぶっ潰すこともできずに、もう77歳になりました。まぁ、その代わりに児童文学の中で、色々書いていこうと思っております。

広島を離れて気づいたこと

 戦争について一番最初に書いたのは「屋根裏の遠い旅」。いわゆるSFで戦争に勝った日本から戦争に負けた日本に行く冒険小説です。まず巻頭に「日本国憲法 第9条」の前文を書きました。平和憲法の中で、自衛隊が生まれたことに対する疑問、これについてなんか書こうと。当時はベトナム戦争の真っ只中で、今の日本だっていつ戦争になるかもわからないんだよというということを読者に伝えたかった。
 当時、被爆体験を児童文学の形として継承しようというのをモットーにしていた「こどもの家」という同人誌があったんですが、私は一度も原爆について書かなかった。広島に住んでいると、原爆、広島では「ピカ」というんですが、ピカの話が日常茶飯事で、今さら原爆を文学の形で書いても、という思いがあったからです。でも山口県に引っ越したら途端に原爆の情報が途絶えたんです。そうすると逆に気になりだす。さらに乾富美子さんという大先輩と一緒に飲んだ時、「あんたも原爆の被爆者なんでしょ、やはり原爆のことを書きなさい」とお説教されたんです。
 その時ふっと思ったのが、平和公園にある「原爆の子の像」。折鶴を折る少女の像です。私が高校一年の時に除幕されたんですが、あの像のモデルになった佐々木禎子さんという人は昭和18年の2月生まれ。早生まれですから私とは学年は一緒。同じ世代の目線で、佐々木禎子さんのこと、原爆の子の像の建立運動を書いてみようと取材をはじめました。
 佐々木禎子さんは、小学生になって白血病になり、中一の10月に亡くなった。クラスメートたちが同級生の死を悼んで世界平和のための原爆の子の像を作ったわけです。
 この「折り鶴の子どもたち―原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち」を書いた時に、いかに自分が原爆について無知だったか思い知らされた。言葉のルーツや正確な意味をもういっぺん勉強し直さなきゃと思いました。

原爆と原子力

 1989年に西村繁男さんが福音館から「僕らの地図旅行」という絵本を出したんですね。その絵を見た時に、絵本だったら広島の原爆の全体像が表現できるな、と思いました。文章で書いても難しすぎて、子どもは読んでくれません。この「絵で読む広島の原爆」は、「セミの声」をキーワードにしています。読者を50年前にタイムスリップさせるんです。セミの声は、江戸時代の城下町で栄えた頃も、明治以降、政治、経済、教育そして軍事の中心として発展した1941年の夏にもうるさいほど聞こえていたそうです。そしてこの本は科学絵本でもあります。例えば核分裂について。核兵器の元になった原子核の分裂によってすごいエネルギーが出るということまで、詳しく描いて日本に原爆を落とす経緯を説明している。さらに、戦後の日本、冷戦時代のソ連崩壊までを全部年表にして載せてある。原爆の百科事典みたいな本になっています。
 実はこの本を書いていた時に、身体を壊しました。だからもう原爆については書かないと思ったけど、広島の人間として一度は書かないと。原爆だけじゃなく、特に戦後の日本を書いていかなきゃいけないなと、そんな思いで書きましたね。
 そして、2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。その年の6月に福島の小学校に行き「広島の人たちは苦しいこともあったけど、あの日に起こったことだけは絶対に忘れないよう、作文でもいいし、なんでもいいから記録しておきなさい」と、話をしたんです。するとある児童から「私たちは30歳までに死ぬと思っています。那須先生は3歳の頃にいっぱい放射能を浴びたのにいまだに元気で、だからすごく嬉しい」と言われました。それを聞いた時はショックでしたね。小学校6年のごくごく普通の子ですよ。これはね、放射線は、肉体だけでなしに心まで傷つけるんだと思いました。その子の話がきっかけで山口県の上関原子力発電所建設の反対運動に積極的に関わることになりました。

今の子どもたちにどう伝えたらいいか…

劇団風の子中部による朗読劇「茶色の朝」

 今の子ども達に戦争を伝えるというのは、非常に難しいです。戦争というのは勝つために全てを収斂させます。「欲しがりません、勝つまでは」という標語がありましたが、文字通り戦争に勝つためにあらゆることを犠牲にした。そういう状況を今の子ども達は知らない、というより50代の人たちも知らないわけですよ。まさか戦争になることはないだろうと。しかし気がついたときには戦争になってた・・・。戦前もそうだった。そういう状況が作られるのですから。
 ですが、戦争を語るのは大変難しいんですね。じゃぁ、語らずにいたらいいのか?例えば平和教育。私もいろんなところで話をしますが、今の親御さんの中には戦争の体験談のような話を子どもに聞かせたくない、と思っている方が多い。例えば「はだしのゲン」を子どもに見せるのは良くないと。読ませない。図書館から撤去したと。本当にそれでいいのか。

次の世代に伝えたいこと

 私の家族の話をします。長男が小学校5年、次男が小学1年生、3番目の長女が年少の時だったかな、広島の資料館に連れていった。今は撤去された被爆人形(子どもを連れた全身ケロイドの母親の人形)がうす暗い照明の中に立っている、お化け屋敷みたいなもんですね。その側まで行ったら、次男が固まってしまった。私自身は3歳の時、被爆体験をしているから見せても構わんだろうと思ったんだけど、次男の反応があまりにもひどかったので、ちょっと反省したんです。
 ところがその次男が高校3年の時、「資料館」へ行きたいと言うんです。それから3年くらい経った時に、長女も「資料館へ行きたい」って言うんですよ。「子どもの時に見てすごく怖かったんだけど、あれはどういうことなのか、なぜ怖かったのか自分でちゃんと見たい」と。それから一昨年かな、長男が家族を連れて「資料館」に行きました。だから子どもの時に、いっぺんはね、こういうことを見たり聞いたりしたほうがいいんじゃないかと私は思っている。その時は怖かっただろうけど、大人になって「なぜ?」と思って再確認をする。今の若い人たちには、特に必要なことだと思うんです。
 次に私が卒業した高校の話をします。創作表現コースという芸術のコースがあり、学生達が12年前から「被爆者と光」という絵を描きはじめたんです。これは平和プロジェクトの一つです。「次世代と拓く 原爆の絵」は被爆者から聞いた話を油絵にします。これは大変な作業です。今の子にゲートルとか三角巾と言ってもわからん、国防色って何色? 語り部も70年前のこと、うろ覚えのところもある。記憶を記録にする。しかも今の子どもたちがそれに協力している。こういうプロジェクトはすごく大切なことです。
 だから、「次世代と描く東京大空襲」「次世代が描く東日本大震災」、そういう形で次の世代に、繋いでいけたらと思います。

岐阜市民会館大ホール 講演に聞き入る参加者のみなさん
シンガーソングライター・増田康記さんとフィナーレ

2019年11月3日 平和のつどい 主催:「2019平和のつどい実行委員会」 参画:岐阜県内「九(9)条の会」 事務局:岐阜・9条の会





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