vol.190 カタコトの部屋 しょうがいをみつめる

 みなさんは「しょうがい」という言葉を聞いてどんなイメージを持ちますか?「障害」という文字を見て、どんなことを思い浮かべますか?

 私は、悲しくて残念なイメージと共に、ふんわり優しくてあったかい感じを持っています。と同時に、「障害」ということばに違和感を感じています。他に適切な言葉や造語や新語を考えますが、これだ!というものにまだ出会ったことがありません。
 私が出会ってきた障害のある人と言われる人たちの特徴は、「害」ではなく、ただただ「個性」でした。社会生活に差し障りがあると認識しているのは周りであって、本人は与えられた体や心、環境をめいっぱい活用して今を楽しく生きています。差し障りがあるという周りの意識が、生きずらさを生み出しているのではないかと感じています。
 このページでは「障害」(しょうがい)を見つめていきたいと思います。見つめていく中で、上で述べた考えが変わっていくかもしれないし、進化するかもしれないし、迷宮入りしていくかもしれないし、そんな自分を楽しみたいと思っています。と、同時にみなさんの感じたこと、見つめていることも知りたいです!21ページのプレゼント応募とともに、あなたの思うところもお待ちしています!

 納得はいっていませんが、現時点では、障害を見つめていく中で「障害」という表記が1番伝わりやすい言葉であると思います。もっと伝わりやすい言葉が見つかるまでは「障害」という言葉を使っていこうと思います。

 私が「障害者」という人に初めて出会ったのは0歳の時でした。父の兄、私のおじが聴覚障害者でした。隣町に住んでいて床屋を営んでいました。おじの側にはいつも、彼の母、わたしにとっては祖母がいて自立を支えていました。祖母とおじは、私の父を慕っていてよくうちに遊びに来ました。私が読み書きができる様になると、辞書を片手に筆談やジェスチャーを駆使して、おじと会話をするのが楽しみでした。小学校高学年くらいになると、おじが本当に1人で生活できているのか気になり、おじがスーパーへ買い物に行くのに隠れてついて行き、影からそーっと見ていました。レジの人はちょっと嫌そうな顔をしながらも(いつもの人が来たわ)という感じで対応していました。おじは親しげに話しかけますが、会話は噛み合っていないようでした。でも、たぶん、おじはそんな空気を感じておらず、会話を続けるのでした。それを見て、おじの1人暮らしは地域の方に見守られているからこそ成り立っていること。おじは耳から自然と入ってくる情報がゼロの為、"暗黙の了解"とか"何となく常識"みたいなことが全くわからないことに気づきました。
 そんな経験があったからか、小学生になると特殊学級と普通学級を行き来している友人の送り迎えの役割をしたり、今では発達障害と言われそうな友人のそばにいつもいました。新しい経験やいつもと違うことがあると逃げて走り回る彼女を追いかけ、落ち着いた頃に一緒に教室へ戻っていました。帰り道では、興味があるものに出会うといっこうに歩く気配がなく、一歩歩いては何十分も進まないなんてことはよくありました。彼女が何をしてるのか感じながら、距離をおいて、植物で遊んで時間を潰したり、そろそろかなって具合で声を掛けたりして。それでも、進んだり進まなかったり、結果が出るような出ないような、ゆったりとした時間が好きでした。
 どの経験も、愛くるしくて笑っちゃう様な、心があったかくなる記憶として刻まれています

 そんなこんなで特別支援学級の先生として働くことになりました。大学を出たばかりの22歳の私は、どの子も可愛くて可愛くて仕方ありませんでした。10名ほどの子どもたちの中でも主に担当したのは、重複障害(肢体不自由、知的障害、情緒障害)という特徴を持つ10歳前の男の子Tくんでした。

       Tくんとの日々のお話は、また次号で!ひつじ

みんながあたりまえに暮らせる社会って?

幼いうちからともに生活すること 特別扱いして考えることをしない
                小児科医 山田 真


 大人になってはじめて障害者と出会う場合、ぎこちなくなってしまうことが多いのです。「どんな言葉づかいをしたらいいのだろう」「どういう行為が差別的な行為にあたるのだろう」など、いろいろ考えてしまうと、変に他人行儀な言葉づかいになったりします。
 また「つきあっていくうちに腹の立つこと、許せないことがあっても、障害者なのだから大目に見るべきなのだろうが、それはきついな」というふうに考えると、つきあうことに躊躇することにもなりがちです。


 子どもたちはよけいなことを考えません。「こんなことを聞いたら差別になって傷つけることになるのではないか」などと考えません。大人だと、障害について口に出してはいけないのではと思って、聞きたいことも聞かずにいることも起こるでしょうが、子どもは素直に「腕は動かないのか」「どうして車いすに乗っているのか」など、自由に聞くことができます。
 また、障害児が普通学級に入った場合、教員など大人が介入しないで子どもたちに伝えておけば、子どもたちが障害児と上手につきあっていく方法を見つけていくものです。
 つきあい方などというものは、一緒に生活していくなかで自然にわかっていきます。大人がなにかいってもいうことを聞かないけれど、同級生にいわれるということを聞くというような障害児はたくさんいます。
 いろいろな価値観を身につけてしまった大人は、その価値観ゆえにうまくつきあえなかったりします。それに対し、子ども、とくに幼い子どもは、そういった価値観から自由であるため「いろいろな個性をもった人間がいっしょに生活していく方法」を見つけ出すことが得意なのです。
 子どもだと障がい児に対しても対等につきあうことができ、ケンカもするし注意をしたりもします。「障がい児だから…」と特別あつかいして考えることをしないのです。これが大事なことです。
 僕たちはどんな障害をもった子どもも幼いときから健常な子どもたちと同じ集団のなかにいるべき、けっして健常な子どもたちと分けられてはいけないと考えて運動してきましたが、その最大の理由はここまで書いてきたようなことなのです

やまだまこと  小児科医。八王子中央診療所所長。「子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク」代表。「お・は」編集協力人。著書に『水俣から 福島へ 公害の経験を共有する』(岩波書店)ほか。

『お・は』NO.90より





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