vol.186 ぎむきょーるーむ 続・先生にこんな「ひとこと」を言われたら 


「やることが遅いです」

学校では「遅い」ということが致命的だと思われている。
学校で「遅い」といわれる子どもたちには、じつはそれぞれにそれなりの事情があるものだ。だが、教員が「早くしなさい」というときには必ず「集団で動いているのだから」という理由がつく。
例をあげよう。ボクは給食の時に時間をある程度決めている。その時刻が来たら、「はい、かたづけて」ということになる。だいたい25分間くらいだろうか。こうしたときに、もっとゆっくり食べたいと言う子がいても不思議ではないと思っている。
でも、じゃぁ、「自由に食べていなさいね」とはいえない。なぜなら、いつまでも食べていると、食器や残り物のあとかたづけが一度にできなくなって、ほかの子どもたちにおおいに負担になるからだ。遅れた子のあとかたづけを、二度も係りの子がやることになってしまう。これは家庭でも同じだと思う。
じつはこうした「遅いー早い」というのも社会的な価値観のものさしでしかないのだから、結局は比較に過ぎない。親や教員は、早さだけでは世の中は渡れないということを十分に承知しているはずだ。ならば遅いといわれる子どもが、結果はともかく、それなりの充実感をもっていろいろな活動をしていることに気づかないで、ただダメダメ光線ばかりを出すのはまずい。それは結局、子どもたちの意欲を削ぎ、適当にやってかたづけておけばいいということを習慣化してしまう。

「自己中心的ですね」
そもそも「自己中心的」とはなにか?よい意味でいわれる「自己主張の能力」とどうちがうのか?
静かに黙っていると「きみはおとなしいが、自分をもっと出さなきゃいけないよ」などといわれる。ところが、ちょっと(人によってその程度にちがいはあるが)「自己主張」しようものなら、とたんに「自分勝手」「わがまま」と非難される。こういうあいまいで似たようないい方は、子育てや学校教育の現場ではよく使われる。しかも、それらの言葉は、その中身を吟味されることなく、発せられたとたんに、子どもや親に突き刺さるのだ。だから、「自己中」といういい方で非難されたら、「じゃあ、自分の考えはどうやって表現するんですか?」と聞けばいい。つまり、なぜ自己中に見えるかといえば、相手や周囲とのちがい・異質さがあるからだ。ちがいがあるからこそ社会が成り立つ。「自己中といわれるくらいの表現や行動でなきゃ、個性とはいえないよ!」くらいはいっていいのだ(笑)。
教員がこどもを自己中心的と非難するときは、自分のいうことを聞いてくれない、とくに「素直に聞いてくれない」ということから、むっとして口から出ることが多い。
授業中に先生の配布したプリントを前からうしろにまわすとき、自分のぶんだけ取って、あとは知らんぷりという子どももいる。しかし、それは自己中心的というよりは、視野が狭く、自分しか見えていないということであり、他人との生活のしかたを知らないのである。だから、しつけや生活のかけひきのなかで学ぶことだ。どちらかというと、生活の技術のような内容でさえある。
「あいつは自分のことしか考えていない」といわれても、やらねばならぬときがある。
リスクまで考えて自己中心的であるかどうかが問題なのだ。格調の高い自己中心的態度は自律のきわみであり、「教育の目的」でもある。

「ヘンな友だちとはつきあうな」
昔から「朱に交われば赤くなる」とか「類は友を呼ぶ」ということがいわれ、親が友だちをきちんと選んだり、監視していないと、自分の子どもがよくならないといわれてきた。
親としては、事件を未然に防ぐために、誰と友だちになっているか?その友だちは「いい子」かどうかが気になる。まして、教員から「あの子と遊ばせるのは注意したほうがいいですよ」などといわれれば、そうとう気になる。
教員に「不良と遊ぶと不良になる」とか「あいつとつきあうとロクなことはない」といわれても、あわててはいけない。もちろん、そういう場合がまったくないとは思わない。しかし、その「見解」が予断と偏見の産物であることはよくあるし、その「ロクでもない子」が、じつは遊ぶことがうまく、集団を仕切ることもうまく、いっしょにいると「あぶないがスリルがある」ということを子どもたちが知っているから「追従し交わる」場合もあるのだということも知るべきだ。
また、たとえ「朱」だとしても、観る角度や価値観によっては、その「朱」が個性として、その子なりのおもしろい展開をしていることもある(いまどきの大人は、「最近の子どもはたくましさがない」というが、ほんとうはそのたくましさとは、ときには「悪いこともやってしまう」ようなことまでふくんでいるはずだ)。
ちょっと「マズイ奴」とつきあっているわが子を見つけたら、ドキドキしながらも、いい勉強をしているくらいに思った方がいい。親のお金を黙ってぬいたりさせるような「悪い奴」ならカミナリを落とせばいい。それだけのことだ。
他人様の子どもをしかるのは勇気がいるし、めんどうだ。教員も親も、そうしたリスクを避けんがために、「楽な友だち」を子どもの周囲におきたいのだろう。そんな気持ちはわからないでもないが、それって、純粋培養に似て、いざというときにとても弱く、親も右往左往することになるのではないだろうか。

「もっとお子さんとかかわってあげてください」
どんな「提言」も頭から無視するのはよくないのだが、この「もっとかかわりあって」というのは、はなはだあいまいでありながら、親にとってけっこう痛いところをつかれていて、笑ってすますことができない場合がある。
結論的にいえば、「かかわりあう」ということが、あまりにわざとらしく教育的になってしまうところに問題があるとボクは考えている。
小学生になれば、世話をする内容も複雑になるだろう。しかし、どんなに複雑になっても、食べさせること、服を洗い着せること、安眠させることは、相手がモノではない以上、こころ配りせざるをえないだろうし、当然いろいろと苦労する。そうしためんどうな生活そのものが、「かかわっている証拠」なのではないか?子どもといっしょに夕飯を作るなんていう「上等」のかかわりもあっていいが、実際にはそんなチャンスは少ない。
めんどうなコトをできるだけ避けて子どもを育てたいという気分は十分わかるが、一方でめんどうでややこしいコトが子どもをめぐって起きれば、そのときこそが「かかわる」チャンスであると思えばいい。
多くの教員が「もっとかかわってあげてください」というような状況があったとしても、ボクはいわないなあ。だって、そんなことをいったら「先生こそ、学校でもっとうちの子にかかわってやってくださいよ」といわれ、悩みをひとつ増やすことにもなる。
最近の「幼児・児童虐待」といわれるものも、けっして親としての愛情がないというたぐいのモノではないのではないか?自分の思いどおりにならない身近な存在を、許すことができるかできないかという問題なのではないか、と思うのだが。
とりあえず、ひとつ屋根の下で存在しつづけることで、まずよしとすべきなのだ。いっしょに暮らすこと、それ自体がかかわりの第一歩なのだ。





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