vol.185 ぎむきょーるーむ 先生にこんな「ひとこと」を言われたら 

「集中力が足りませんよ」
「集中力の欠如」を先生はよく問題にする。実際には子どもが授業中に消しゴムをきざんで定規の跳躍台からとばしたり、シャープペンの解体作業をしたり、教科書のイラストにひげをつけたりということなのだが。
こうした集中力というのは、夢中になると言うこととは少しちがうようだ。簡単にいえば「先生の提議した問題なり課題に、よそごとをせずに黙ってとりくめる力」ということになる。この力を先生は高く評価する。なぜなら集中していてくれれば教室も静かだし、「よしよし、いい子いい子」の学級帝国主義が築かれていることが確認できるからだ。もちろん、「まじめにやれば賢い子になる」という学校の原理にかなうことでもあるし。
ところが、先生の提議している課題にクラス全員が集中することができるという事態はそうあるものではない。
じつは集中力を決める大きな要因には、子どもの個人的な要因と同時に、先生の出す「問題・課題」の質と量によることが多い。たとえば、計算問題を45分の授業や宿題で100問出したとしよう。先生としては「45分あればできるのが標準」だと予想しても、実際にはほとんどの子どもが集中してやると考えているとしたら、そうとうノー天気だと思う。
子どもが授業中にこっちを見て聞いてくれて、課題にそこそこ一生懸命とりくんでくれるように先生は「工夫」する。この工夫なしに「アンタの子は集中力がない」などと常識のある先生はいわない。いや、いえない。
子どもはそれなりに息をぬきながら、先生の目を盗みながら、授業中休憩していくだけの自律性が必要なのだ。おそらく子どもは自分でオーバーヒートしないよう工夫しているはずだ。それが、「集中力の欠如」というかたちであらわれてくることもある。
親としてはまず「アンタ、ちゃんと授業聞いている?!」としかりつつも、「たまには大事なことはきちんと聞かなくちゃいけないよ」くらいのお小言にしておきたいものだ。

 

「偏食では丈夫な身体になりませんよ」
「学校ぎらいの原因は給食なんだ」という子どもがいる。入学の前に、親は「給食を残したらいけないんじゃないか?」と心配する。子どもに「給食を全部食べないとダメ」とおどかす親もいる。しかし、なんかおかしい?
以前、給食主任に「『何でもよく食べて!?』というのはヘンだ。だって、ブタじゃないんだからなんでも食べろというのはおかしいでしょう?」といったことがある。すると、いやな顔をされたが反論はなかった。でも、そのことをエコ農業を志している人に話したら、「オカザキさんはまちがっている。ブタはおいしいもんしか食べないぜ、ブタに失礼だ!」としかられた。
だいたい、学校はおかしな食文化を強制している。ご飯に牛乳がまず変だ。もちろん、牛乳のリゾットなら、まあ話しはわかる。コッペパンに、メキシコ風タコス、いちごジャム、スープ煮といった組み合わせなど、なんじゃこれ??
ある教員が「しっかり食べないと大きくなりません」といったときに、すかさず、「先生は小さいけど好ききらいがあったんですか?」と子どもに聞かれて、はり倒さんばかりに怒ったというはなしを聞いたことがある。
『食』というのは自分たちの生活全体を考え直すための入り口としてはとても意味があるのだ。「偏食です」という発想では、肉ばかり食べるのも偏食なら、野菜ばかり食べるのも偏食ではないか。でも、そういう「偏食」の地域や国の人々はみんな不健康なんだろうか?
偏食は、文化の問題なのだから、給食のあり方をそのままにしておいて、なんでも食べるほうがいいというのは偏見である。なんでも食べる時代ではなく、選んで食べる時代なのだ。

 

「特別支援学級へ行ったらどうですか?」
就学時健診や、進級の時に「お子さんのために特別支援学級へ行ったらどうですか?」と学校からいわれた場合、子どもが普通学級で学びたい、生活したいと思うなら、やはりきちんと学校へ申し入れなり主張をすべきだ思う。
労働者の立場からいうと、一般的に仕事は楽なほうがいいに決まっている。だから、「発達障がいのある子は世話が大変だ」という教員も多い。しかし、現実には「手のかかる」いろいろな子どもがいるのは当然のことであり、発達障がいがあるかどうかは関係がない。
教員の中には、「特別支援学級へ入れたほうが、きめこまかい指導を受けられるので本人は幸せです」という、一見良心的ないい方をする人もいる。しかし、ある意味で無責任な言葉といえる。だって、そんなことは「わかんない」のだ。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それより一緒に生活することがまず重要なことであり、その場の集団の、つまり社会の「構成員」であることが、すべての子どもたちにとって重要なのだ。そこを分離してしまっては、最初から排除が前提になる。
ボクの知っているお母さんは、特別支援学級を学校からすすめられたが、ガンとして「普通学級に入れます」と主張していた。毎年、実施される「進級判定委員会」で、校長は特別支援学級をすすめるように職員にくり返していたらしいが、担任は校長の提案にあまり乗り気でない人だったようだ。そこで校長は保護者を呼び出して「特別支援学級への編入」をしきりにすすめたが、保護者はクビを縦にふらなかった。
しかし、なんといっても、そのお母さんがいちばんこたえたのは、「お宅のお子さんのせいで、うちの子たちの勉強が遅れるんじゃないですか」などというまわりの親たちの無言の圧力や反発だった。こうした親たちを説得するのはエネルギーがいる。やはり学校を相手に、きちんと親の権利として意見を文章などで述べるのがいちばんいいと思う。

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多治見市は「多治見市子どもの権利に関する条例」を制定し今年で15年を迎え、子どもの権利を保障するまちづくり、子どもの笑顔があふれるまちづくりを進めています。平成30年度のセミナーでは公的第三者機関として子どもの権利救済を行う子どもの権利擁護委員の一年間の報告と、岡崎勝氏の講演会が行われました。

2018年7月30日 岡崎まさる講演会 in多治見
「気づいていないかも・・・子どもの気持ち」
子どもの権利が学校のなかで語られることは少ないです。それでも学校では「語る・学ぶ・活かしていく」を最優先課題にしています。しかし、いじめなどのトラブルがあると、大人はどうしてもどっちが正しくてどっちが悪いのかを判断しようとします。それは果たしていいことか。まずきちんとルールを示すのが大人。わがままや、はみ出しを個性と見ていくのが教育です。では、子どもが教員に暴力をふるう・・・それは個性か??どう考えてもルールからはみ出している。いったいどうしてそんなことをするのか、きっと何か理由があるはず。根気よく会話をしていく。ここが勝負どころです。それではじめて子どもの実態が明らかになります。ボクが判断するときは常に「子どもの最善の利益」を優先します。 たとえば、子どもが嘘をついたとします。嘘をついたことを謝まらせて叱って・・・それが子どもにとって最善の利益か??子どもと相談という形をとり一週間ぐらい考えようか、と時間をつくる。うやむやで終わるのもいい。子どもの世界って忘れた方がいいことがたくさんあるんです。ところが、社会に寛容性が無くなったので、大人のガマンが出来なくなった。 だいたい人に迷惑かけてナンボ、これが子どもですよ。
学校は生活の場でもあります。学習指導要綱には大事なことが抜けています。それはぼーっとする時間。だけど、そういう時間があったとしても、子どもはなにかやらかして教員を困らせます。そんな時は子どもの可能性の世界を信じることです。登下校の時、見守り隊の高齢の方に「くそじじぃ」と言えば「この悪ガキがっ!」と応える。そういう人と人との距離感。こういうことがホントに大事なんです。子どもはすでに学校も含めた社会で育っています。社会のゴタゴタの中でもたくましく育って欲しいです。
子どもの権利を保障していくことが大人の役割です。子どもの最善の利益を優先し、こどもの将来を考えて今の子どもを見る。最終的には子どもに聞きなさい!とボクは言いたいです。 (文責・にらめっこ)

岡崎 勝 おかざき まさる
1952年愛知県名古屋市生まれ。小学校教員43年目。フリースクール「アーレの樹」理事。1998年より「お・は」編集人。きょうだい誌「ち・お」編集協力人も務める。著書に『きみ、ひとを育む教師ならば』『ガラスの玉ねぎーーーこどもの姿を写し出す1年白組教室通信』(ともにジャパンマシニスト社)、『みんなでトロプス!』(風媒社)、『学校再発見!』(岩波書店)『新・子どもと親と生活指導』(日本評論社)、『センセイは見た!——「教育改革」の正体』(青土社)、共・編著に『友だちってなんだろう』(日本評論社)、『がっこう百科』(ジャパンマシニスト社)など。