「行きたくない」といえない
がまん強い子の先に待ち受けること
学校生活のなかで
内田 良子(心理カウンセラー)
病気は見つからないのに症状が
子ども相談で出会う子どもたちは、がまん強い子たちが多いです。ある日、朝から吐いて吐いて、胃の中に吐くものが残っていない状態でぐったりしている小学生が受診してきました。問診や医療上の検査をしても、どこも具合が悪いところが見つかりません。医者は首をかしげ、心理室に紹介してきました。
病気が見つからないのに症状があるとすれば、心になにかいうにいわれぬ事情を抱えているのかもしれません。でも子どもの場合このなにかにたどりつくのが、なかなか難しいのです。
同伴している母親に事情を聞いてみると、症状は、夏休みがあけ、二学期が始まってから現れたとか。夏休みのあいだは夜更かしをして、朝ゆっくり起きていました。生活週間が崩れてしまったのか、登校時間にまにあうように起こしても、なかなか起きられません。
心配した母親が「学校はどうするの?」と聞くと、「学校は行きたい」と答えます。「学校へ行きたいなら、早く起こして支度をしなくては!」と、母親は子どもを抱きかかえて起こし、学校へ行く用意をさせようと手を出します。しかし、立ちあがるとめまいがして、吐き気がするため、座りこんだまま動けません。毎朝のように同じ状況をくり返していました。やがて吐き気がとまらなくなり、吐いて吐いて転げまわるほど苦しむようになってしまったわけです。
体が無理だと訴えているときは
学校という狭い世界では、先生の言うことが絶対です。矛盾したことをいわれ、おかしいと思っても、教室にいるあいだは従わざるをえません。理不尽ながまんです。がまんを重ねていくとストレスがたまります。先生のいうとおりに従いなさいと親はあたりまえのように子どもにいいます。子どもは自分の感じている矛盾をどこに向かっても表現できず、ストレスはたまる一方です。
がまんの限界にきたときに、子どもの心身に不調が出ます。熱が出たり、おなかが痛くなったり、吐き気がします。頭が痛くなったり、手足が動かなくなる子どももいます。
体が学校へ行くのは無理と悲鳴をあげているのです。体の不調が続くと、親は心配して病院を受診します。子どもも、なにか深刻な病気のはじまりではないかと不安に陥っています。
しかし、病院で検査しても、病気は見つからず、学校を休むと症状が消え、元気になって、再び学校へ行くと、今度は別の症状が子どもの体のあちこちに出ます。
学校へ行くことが求められている間では、こうした心身症状は消えません。さみだれ登校や不登校の始まりです。
不登校対策が徹底しておこなわれるようになった近年、原因不明の体調不良で休みがちの子どもに対し、スクールカウンセラーや担任が精神科の受診を進めるケースが増えています。精神科を受診すると、小学生に対しても抗不安剤や抗うつ剤などが処方されるケースがめずらしくなくなっています。がまん強い子どもたちの先に待ち受けているのは、心と精神を操作する薬物治療の世界です。
子どもの体の声を聞き、体が無理だと訴えているときは、休むことです。休んで安心すると、心の声が話しはじめます。
うちだりょうこ・心理カウンセラー。子ども相談室「モモの部屋」主宰。著書に『登園しぶり・登校しぶり』(小社刊)ほか。
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自立と自律ができないことには・・・
岡崎 勝(小学校教員)
なんとかして「がまんさせよう」と思っているのに、「がまんしないほうがいい」などとはなかなか思えない。しかし、「がまんしてしまうことのリスク」がたくさん語られていた。
それは、心身が病気になってしまうとか、自分の考えや意志が「他人志向的」になってしまうことである。惰性的・慣習的思考の一つである。それは「まじめ」であることと似ている。がまんすべきだとまじめに思いこんでしまうことにもリスクはある。
ケースバイケースで、がまんすることのリスクをどれだけ敏感に感じとれるかということになる。これはけっこう高度な裁量であって、子どもには簡単ではない。とりわけ小学生くらいで「がまんしすぎるのは良くない」と判断できる子は少ない。「自由にしていいよ」が、無言の「がまんすべきでしょ」という圧力になることがある。
しかし、いじめで深く傷ついたり、病気になってしまってりしては「元も子もない」ということは、誰かが教えなくてはなかなか本人にはわからない。
体育会系やスポーツ型の親や教員はこの判断に疎いことが多い。スポーツ的意志の強さは「ちょっとのケガ(痛み)くらいは、がまんできること」でもあるからだ。がまんしすぎのアスリートが燃え尽きることもある。
なにに「がまん」するのか?
たとえば、ゲーム機やスマホを買いあたえるか、がまんさせるか?」というとき、親として「がまんさせたい」という場合、つまり子どもと反対の立場を取るとき、それをがまんさせるのはむつかしい。
もちろん、子どもにがまんの意味や、がまんしなかったときのリスクや制限を伝える努力はしたほうがいい。「がまんさせること」が「子どもへのいじわる」とならないようにするためだ。
がまんはがんばってるすというより、しなくてはしょうがないものといてあるほうが考え方はシンプルでよい。つまり、「できればがまんなんかいたくないけど、がまんしないとうまくない。まずいよな」という気分。だから「がまんしなくてもまずくならないなら、がまんしない」という判断になる。ましてや親や周囲の大人が、ぜんぜんがまんしていないのに、「自分だけがまんするのは許せない!」などといい出す。
どうやってがまんするか?ときどき休憩を入れるとか、気晴らしをするなど、がまんを続けるためのコツがある。がまんの本道は、孤独と無力感との戦いだろうと思う。
結局、意味のある。意義のある、必要ながまんができるようになるのは、自立と自律ができるようになることと同じことなのかもしれない。そうなると、子ども以前にまず大人からではないかと思う。子どもより大人のほうが、がまんしていないもの。
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国・社会の「利益」のために?他人に迷惑をかけないように?決められたルールだから?ぐっとこらえなければいけないとき、がまんしすぎてはいけないとき、それぞれの時代や環境によって、いえること。
戦争の時代から見てみると
今も続く、国民に強いられた「がまん」
強制は危険きわまりない
「じっとがまんの子であった」というのは、昔々「子連れ狼」というドラマの中ででてきた言葉だったでしょうか。
一般に、がまんできる子どもはほめられるようですが、がまんしすぎるとしばしば危険なことになります。いじめにあっている子どもなどはがまんしすぎる傾向があるといわれますが、がまんせずに反発したり誰かに伝えたりすると、よりひどいいじめにあうので、がまんするしかないのかもしれません。
ともかく、がまんは自発的なものでも危険があるわけですが、これが強制されたがまんということになると、危険きわまりないといわねばなりません。
太平洋戦争のおりなど、国が国民にがまんを強いたものでした。この場合、戦局がすすんで戦いが不利になり、経済的にも困難な状況になるにつれ、国民はより強く「がまんしろ」といわれました。
福島の人にある現実
そしていま、福島でぼくは戦時中に似通った状況を見てきました。たとえば、福島の渡利地区。ここは原発事故後、放射能の空間線量がとても高い地域として知られていました。この地域の人たちが国に「この地域を非難地域に指定しろ」と求めましたが、認められませんでした。国はこの地域の人たちに「健康に影響しない線量だ」と根拠のない情報を流し、がまんして住み続けることを求めました。
ぼくは福島から東京へ非難している人の支援も続けていますが、そういうなかで、自主避難の子どもたちがあちこちでいじめられていると報道されました。
福島にかぎらず、沖縄や原発再稼働に反対して戦っている地域を除く日本中で、がまんをしすぎているように思います。これはこの国の将来をあやうくすることではないでしょうか。
山田 真(やまだまこと) 小児科医。八王子中央診療所所長。「子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク」代表。お・は編集協力人