vol.177 忍耐・ガマンの上手な伝え方

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忍耐力ある?ない?
わが子の場合

・ 「自分が第一で譲れない」
10歳の長女は、自分の希望にそぐわないと不満を吐いて怒って、あげくしくしく泣き出す。弟や妹にも譲れない・・・(娘10歳・6歳、息子2歳)
・ 「大好きだから続けている」
大学一年の長女は小一から、次女は年長から現在まで剣道を続けています。娘たちに忍耐力が身についているとしたら、親が「忍耐力・がまん」は「苦しい・嫌悪」ではないと思わせることだと思います。(娘19歳・18歳)
・ 「しんどいと忍耐が薄くなる」
親も余裕があるときは、忍耐強く子どもの話を聞けるときもあり、気持ちを察しようとすることもできますが、しんどいとき、貧乏だったり、体調が悪いとき、疲れているとき、悩んでいるとなどはそれができない。(娘14歳)


ガマンを通して人生の歩みを見直してみると

池内 了(宇宙物理学者)

外的な抑圧と内的な抑圧
堅苦しくいえば、心はあるモノを欲したり、あることをしたいと願ったりしているのだが、そこになんらかの抑圧が働いて心の自由度が抑圧された状態をガマンと呼んでいる。
強制されたガマンは反発や不満が常にともない、自らの判断や自制心からのガマンは、やり通せば自己満足を味わうが、途中でくじけると自己嫌悪に陥ることになる。
外的にしろ、内的にしろ、いずれにしろ抑圧にはそれなりの合理性があるので従わざるをえないと心では認めながらも、精神の自由度を奪うと感じる程度には素直に従えないとの気分もあり、いわば心の葛藤状態にある。抑圧を振り切って心を解放しようとするギリギリのところまで追い詰められると、「一か八か」あるいは「ケセラセラ」の心境になって思い切ってガマンと手を切ることになる。それは、はじめにあった心の抑制からの解放を意味するが、あらたなガマンの種を背負い込むことも多い。
このように次々とガマンをくり返していくのが人生であるかもしれない。

みずから課すのができるのは10歳くらいから
赤ん坊時代の人間は心の抑制とは一切無縁だから、ガマンとも無縁であることは明らかで、人生において自分が世界の中心であると主張できる唯一の時を生きる。やがて自分は世界の中心にはいないとわかるようになってガマンの心が少しずつ芽生えてくる。親から「静かにしなさい!」とか「早く寝なさい!」と命令され、自分のペースですべてが進むとはかぎらないと悟って、ガマンしなければならない状況があることを学ぶからだ。ただ、この年齢のころは抑圧に素直に従っておくほうが楽で、わざわざガマンしてがんばろうとはしない。体も心もガマンについていかないからだ。
成長するにつれて親の一方的な命令に対して反発したり、ガマンすれば我意を通せることを覚え、6歳くらいになるとガマンした方が損か得かを天秤にかけるようになる。
10歳くらいになると、自分でなすべきことの目標を決めたり、道徳心から自分の生き方を反省して、みずからを制御してガマンするということを課すことができるようになる。

集団として生きるためには
青年期にはガマンの源泉に外部からの抑圧と自己が課す自制があることを強く意識するようになり、抑圧があることを予想すると前もって自制してそなえるという高等策を打つようになる。さらに抑圧は自分の心の持ちようでもあると気づき、ガマンするのではなく無関心を装ったり、抑圧とガマンの関係から降りたり、ガマンせずにもっぱら欲望と取引するようになっていくのだ。しかし、それは若さが持つ特権で、人は遅かれ早かれ集団として生き、それとの調和のためにガマンしなければならないことが多々あると知っていく。
さらに、中年から老年期のガマンについて。最後に「認知症は人生の最終章におけるガマンからの解放かもしれない」と書く予定だったが紙数が尽きてしまった。
ガマンということばを通して人生の歩みを見直すのも悪くないな。と書きつつ思ったことであった。

いけうち・さとる 総合研究大学院大学名誉教授、名古屋大学名誉教授。専門は宇宙論、科学・技術・社会論、新しい博物学。宇宙や科学をテーマにしたものを中心に著書多数。最新刊は『ねぇ君、不思議だと思いませんか?』(而立書房)

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対談
岡崎 勝(小学校教員・おは編集人)×五味太郎(絵本作家)

「ガマンさせたい」親の気分
「どうしてがまんするの?」という子どもの疑問。
社会が混沌とするいま、学校に求められること、大人ができることとは?

自由なんてどこにもない
五味:オレは10年くらい前にアフリカに行ったんだけど、そこでわかったのは、人は環境の中に生きているってことだよね。社会というより環境。アフリカのような大自然が自由だっていうのは大まちがいで、ぶらぶら歩いていればライオンにはやられるしサイやゾウが寄ってくる。その環境をどう生きぬくかってことしかないんだな、ということ。アフリカで暮らすと、ゾウが横切るのを待つ、飲める水がなかったら、五時間かけてでも汲みに行く。それは生きるためのことだから、人間は耐えられる。つまり、それ以外のものが、がまんできないっていうのは、生命に関係ないからなんだよ。
岡崎:すごくシンプルだけど、生活というものがしっかり見えるような景色が、子どもたちにはほんとうに足りていない。「がまん」といっても、子どもたちはただランニングマシーンで景色の変わらないところをずっとがまんして走らされているような、そういうしんどさをすごく感じているんだと思います。

身体を壊さない環境をつくる
岡崎:子どもが「ゲーム買ってくれ」「スマホ買ってくれ」っていったら、親はがまんしなさいっていうし、ぼくのところにも「どうやったらがまんさせられるでしょう」ってよく相談がある。「買えるんなら買うしかないんじゃない?」っていっちゃいます。「ダメなら、嫌われる覚悟で子どもと対立するしかないよ」って。
五味:いまの大人たちも置いてきぼりになっちゃったのが、やっぱり経済の世界だと思う。ゲームもスマホも子どもたちがどうしても欲しくなっちゃうようなもので商売してる。一過性に楽しいものをどんどん編み出していく。
この世界を生きぬくにはこんな手があるよっていうのを、子どもたちにどのくらい提示できるかだよね。子どもが「なんで、これをがまんするの?」って聞いたら、その情報公開ができるかできないかなんだよ。「こうだから・・・・がまんしなよ。中学でなきゃ、免許証もパスポートもとるのがたいへんになるから」って。

よけいなお世話が多すぎる
岡崎:ぼくは今フリースクールで不登校の子たちとかかわっているけど、そういう子たちはほんとうにいろんなことが学校でいやになっちゃってます。なにをやろうとしても「どうせつまんないから」っていうんです。それは、もったいないなって。
五味:そういう子たちはやっぱり社会に対して自閉しちゃってる。何かはじめるとよけいなこといわれて、めんどうくさいんだよね。大人は、子どもが絵を描いているとき「何描いているの?」って聞くけど、塗る楽しさを感じているときにそう聞かれたら、めんどうくさいんだよ。
岡崎:子どもたちのなかにはしょうがないから友だちやっている子もいますよね。「友だち」の数を競うようにSNSをやったり、何人が「いいね!」してくれたとか・・・産業資本主義のなかで数が多いほどいいっていう神話が子どもたちにも身についちゃってる。

子どもは大人に気をつかってる
五味:今の子はとくに、気をつかってるね。肉体的に、社会的に、自分たちが弱いってことをわかっているんだよ。切ない子ども心よね。だから優しいんだよ。親のいうことや先生のいうことに一生懸命応えてあげようとしてるの。
岡崎:それで疲れちゃうんですよね。
五味:力があればいいけど、そうじゃない子は本当に疲れちゃう。やっぱり大人がバカなのが、いちばんつらいよね。だから、子どもたちは今自信がないだろうけど、ある年齢になって体が動くようになったら働けるというのを、大人は保障しないといけないよね。





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