vol.176 ぎむきょーるーむ 続・どう診断?どう支援?

ギムキョータイトル

今号は、

発達障害の診断基準って?
診断されたあと、
それから、子どもたちはどうなるの?

あいまいなままの特別支援
発達障害の支援のあり方は都道府県や自治体による差が大きい。診断名をもった子どもを通常学級で見ていくことを手放しつつあります。つまり、子どもを新しいかたちで分けはじめたのです。
医療機関ではADHDかLD、高機能自閉症(これは診断名としては公認されていません)かアスペルガー症候群かにふり分けられることが多いのです。診断基準は行動や症状の羅列で、同じ子どもが二つの診断名をもらうということも起きます。
一旦診断名がつくと、学校では「それでは」というかたちで、保護者と本人との面談などを通じて同意がはかられ、時間割のうち何曜日の何時間めは、支援教室に行くという個別教育計画が立てられます。特別支援教育の体制は、学校に校内委員会を作り、特別支援教育コーディネーターを中心に実態把握や校内での対応をしたうえで保護者の同意もふまえ、巡回相談員を通じて教育委員会に儲けられた専門家チームの検査や判断をするとされています。しかし専門家チームは当の子どもに接していませんし、個別教育計画は学校でなければ作れないので、実際にはこのプロセスを経なくても、診断がついた時点でゴーサインが出ているようなものです。
そもそも特別支援教室は個々の子どもの「弱点」を教育する場であり、さらに発達障害の子どものみを対象とするという取り決めはありません。ですから、あちこちの学年から不登校の子や家庭的な問題が背景にある子など、いろんな子が来ています。先生は一人だけで、個別の学習指導、人とのつきあい方などの援助ができる体制ではありません。それでも、通常学級で授業を受けているより楽しいので、本人は喜んで行くようになることが多いわけです。担任の先生にとっても、「トラブル」が減るので、支援教室に行かせる時間が徐々に増えていく傾向があります。
特別支援というならば、少なくとも支援の内容と方法を明確にし、その効果を一定期間内に評価し、計画を見直していく体制が必要ですが、それらはあいまいなままです。下手をすると、子ども本人の意思を担保にして「厄介払い」する場になりかねません。

ラベリングのデメリット
いま、日本の社会は能力主義がいきわたり、就労のハードルは高く、若い世代が派遣やアルバイトなど不安なかたちで仕事をせざるをえない現実があります。そうしたなか、人づきあいが苦手であったり、課題をなかなか期限通りには達成できない人が仕事を得たり続けていくことはむずかしいといえます。
うた 障害による不利益を被ることが多いこの社会の中で、わざわざ障害名をラベリングし、特別支援教育というコースが新設されました。支援を受けることによって徐々に通級を減らしていけるのかどうかもまだ見えていませんし、通常学級での授業参加の実態がないことから成績評価ができない教科が出てくることも予想されます。小・中学校ではさほど問題にならなくても、高校受験の段階で、明らかな進路上の不利益が生じることも考えられます。
私は、こうした特別支援教育自体に賛成はしていません。ひいき目に見ても、障害のある子の一部は「特別支援教育の成果」として社会に受け入れるけれど、それ以外の子は、教育でやれることはやったのだから、あとは「家庭で責任をとりなさい」、という主旨のように思われてきます。
ADHDとされる子はたいていいつも怒られていて、「どうせ自分はダメだ」という気持ちになりがちだということはあります。そこをついて特別支援教育を誘われたりもします。しかし、迷われている方へいいたいことは、あまり先回りして不安を感じたりふりまわされるよりも、親も腹と腰を据えて、本人にとっていまなにが大事なのかということを、いちばん考えてほしいということです。

茨城大学教員 三輪壽二(みわしゅうじ)
茨城大学教育学部教員。日本社会臨床学会運営委員。精神科医療に心理職として約10年勤めたのち、2000年より現職。著書に『カウンセリングと学校づくり』(偕成社)、『カウンセリング幻想と現実』(共著、現代書館)、『子どもの<こころの危機>はほんとうか』(教育開発出版社)ほか。

先生

予算不足で臨時講師
海和:「発達障害」と呼ばれる子どもが増えてきたためか、特別支援教育担当の教員が足らないって?
夏目:そうかも・・・非常勤講師がかなり動員されているね。
海和:普通学級にいるけど発達障害といわれる子どもたちも増えてはいると思う。
夏目:でも、「増えてきた」っていうけど、発達障害をはっきり確定できる診断はかなり少なくて、診断方法にも疑問はあるんだよな。非常に拙速で、アンケート用紙や適当な観察で医師や心理士といった「専門家」が判断しているケースが多いと思う。そういう診断をされた子どもが学級に来ても、騒ぐほどかと思うことも多い。

ほんとうに困っているのはその子
海和:私は特別支援学級をずっとやってきたけど、まぁ、なんとかなるよって感じで仕事してきたから、あんまり「発達障害」だからどうのってことはなかったな。
夏目:特に印象的だったことは?
海和:手のかかる子はいるよね。乱暴したり、教室から抜け出したり。でも、本当に困っているのはその子どもだよね。怪我しないようにじっと黙って見ているしかできないんだけど・・・。ところが、親の中には「うちの子は、もっとやればできるはずだ」「身につかないのは、教え方が悪いせい」という人もいれば、逆に「どうせやっても意味がない」など投げやりな人もいて、そういう親とは、関係を作るのが難しくて・・・。
夏目:難しいよね、そのへんは。
海和:ありのままをまず肯定し、楽しんで学校へ行っているとか、生活してくれればまずよし!と思ってもらうことが基本だと思うんだけど。そのうえで、少しでもできたり、チャレンジしようとしたときは、いっしょに喜んでもらえればと思う。けれど、親なりに勉強した専門知識に固執して「指導はこの方法で」と強要してくる親さんもいて「その方法ではお子さんにはキツイだけですよ」っていってもなかなかわかってもらえないこともある。
夏目:それは普通学級でも同じだよ。親だけでなく同僚に対しても、かなり気を遣うことが多いでしょ。
海和:普通学級の子と交流するのはとても有意義だから、うまく連携したいんだけどね。ほかの子の勉強が遅れるから迷惑だとか、平均点が下がるだとか、とんでもないことをいう普通学級の担任もいる。結局、教員自体が「競争原理」に毒されているというか、狭い価値観でいるからそうなるんだね。
夏目:学級に障害を持った子どもがいれば、逆にそういう子どもたちから「健常」といわれる子も学ぶことも多いはずだけどね。
海和:子どもの方がうんと柔軟なこともあるし。以前、特別支援の教室に子どもが来ないので、おかしいと思っていたら、その子が普通学級の方へ行ってしまっていた。その子は、子どもたちがいたからその担任ともうまくやっていた(笑)
夏目:それは、おもしろい。子どもたち自身が、制度の枠組みを乗り越えるって感じだ。

成長のための共同協力者は、どこに?
心配夏目:特別支援教育における、海和さんが思う「望ましい教員の姿」は?
海和:障害児教育の分野は、昨日の学級が明日覆されるってこともままあるから「過信しない」こと。どの子にも当てはまる有用な理論はないということを知るべき。それと、保護者には、よくも悪くもわが子の別の一面を教えてくれるのが教員と思って欲しい。子どもの成長のために存在する「共同協力者」という感じがいちばんいいかな。
夏目:「特別支援学級か普通学級か、どちらがいいでしょう」と聞かれるけど、ぼくは普通学級でやればいいと思う。場合によっては、その先生との関係次第かな。とりあえず、支援学級を見学してみて、先生の雰囲気とか、学級児童の数なんかを聞いておくことだけは絶対に必要だと思うよ。
海和:子どもは、前に立つ人、あるいは友だちによって、刻々と態度や感情が変化するもの。同じ声かけでも、マニュアルでもちがいが出る。成長って、子どもを取り巻く大人や環境との関係性が生命。だから、子どもを見るときは、彼らを「まるごと」見ることだと思うよ。でないと、視野が狭くなったり、こちらの態度が傲慢になってしまう。ずっと、そんなことに気をつけて、子どもに関わってきた私の実感です。