杉原千畝記念館にいってきました
先日、大垣の「ようこそ先輩平和課外授業」メンバーと八百津町にある杉原千畝記念館にいってきました。そこで、多くのことを学び、考えさせられました。今回は、そのことを紹介したいと思います。
杉原千畝記念館:千畝が育まれた地域風土を、岐阜産の総檜づくりと新伝統構法によって空間化。異境の地リトアニアと生誕の地八百津の文化差異を表現し、時空を超えて千畝の遺徳を柔らかく包み込みます。
木組フレームによる広がりのある展示室、孤高な千畝の執務室、八百津の町を見晴らす展望室で構成されています。
杉原千畝という人
杉原千畝は、1900年1月1日 岐阜県加茂郡八百津町に生まれました。親の反対を押し切って入学した早稲田大学高等師範部英語科を退学、学費のかからない外務省留学生として満州のハルピンへ行くことを選び、そこでロシア語を学びます。1924年外務省に入省し満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアに勤務します。
彼は1940年夏、リトアニア共和国カウナスの日本領事館領事代理時代に、ナチスドイツの迫害をのがれてきたユダヤ人に外務省の命令に背いて日本通過ビザを発給し、約6,000人もの命を救ったとされるのです。日本政府はドイツに配慮、杉原さんに対して、資格を持たないユダヤ人へのビザ発給の許可を出すことは最後までありませんでした。それでも、独自の判断で発給を続けました。
発給された日本通過ビザによって日本に渡ったユダヤ人の中には、避難先の国の入国許可を得ていないために、結果として日本で足止めとならざるを得ない人々も多かったようです。でも命の危険が迫るヨーロッパから脱出させることができたことは、まさに彼らの命を救ったことになります。ソ連への併合で、杉原さんのいたリトアニアでは各国の在外公館が相次いで閉鎖されていきました。日本領事館もまた閉鎖することを求められ、杉原さんもこの地を離れなければなりませんでしたが、それでも杉原さんは最後までビザの発給を続けたと言われています。
列車が出発するギリギリまで…最後の一枚は客車の中から渡したと言われています。
1947年に帰国、外務省を去り、1986年7月31日、86歳で逝去します。それでもなおユダヤ人を救った功績を讃えられることはなく、2000年になってようやく日本政府によって公式の名誉回復がなされました。
記念館で
記念館は日本語、英語、ヘブライ語の3ヵ国語で説明が書かれていました。訪れる人にも外国人観光客がとても多くて驚きました。また、そんなに広くない小さな記念館ですが、すごく色々な事がつまってました。
私は、杉原千畝という人がどんなことをしたのかというのは、詳しくは知りませんでした。なので見る写真一枚一枚が初めてのことばかりで、目が釘付けになってしまいました。見る説明、写真一つひとつに驚くことが多く、印象に残っています。
アウシュヴィッツ強制収容所の写真が印象的でした。ナチス兵に監視されながら労働するユダヤ人。笑顔で写真に写っている子ども…でもその行き先は毒ガスで殺されてしまう毒ガス室……食事が十分にできず、ガリガリの体…みていてとても辛かったです。
CMなどで見ていた杉原千畝の映画がとても見たくなりました。
人のために自分はどうなっても…という杉原千畝さんの考えに、杉原千畝さんはとても人思いな人だったんじゃないかなぁと思います。この記念館を訪れて、平和について色々な事を考えることも大切ですが、もっともっと身の周りのことについて考えたいと思いました。人のために私だったら何ができるのだろうか…すぐに行動に移すことも大切だと思います。
でも、まず知りたいです。
子どもの貧困のことだったり …。
知ってから、行動に移したいと思います。
これから、周りをよくみて、自分の出来そうなこと、知りたいことを見つけて行動していきたいです。