工夫していること、困ったことは?
・キャップ、ダンボール、ひも、ワイヤーなど、使えそうなものは分別収納して残しておきます。(息子6歳・3歳)
・ アイデアを出す時点からいっしょに考えています。こども自身からは、なかなか浮かばないようです。製作も、下準備等は親がやっています。本人の作品か?といわれると悩ましいところです。(息子10歳・6歳、娘4歳)
・インターネットで上手な人の作品ばかり見せてしまった。自分で作るより親に頼ってしまい、こちらも手伝いすぎた。どのように導いたらよいか、まだわかりません。今年は下手でも自分の力でやらせたいとは思いますが。(娘8歳、息子6歳)
省エネ的かかわり方か、楽しむか?
自由研究への向かい方は、二つの道しかない。とにかくめんどうだから、「出せばいいや」と、できるだけ簡単に、親子間でトラブルのないように、省エネ的に無難に切り抜ける道。
もう一つは、保護者自身が、子どもと楽しもうとする。親といっしょになにかとりくむことに意味をみつける道だ。
「やらねばならぬ苦しみ」と受け止めているあいだは、怒りやいらだちしか残らない。子どもといっしょになにかできるということに、素直に喜びを見つけていくのである。年に一度、ゆっくりと子どもに手をかけることを「覚悟」するのだ。堂々と、あるいはつつましく、親子の共同作品としてもかまわない。
教員の側からすると、夏休みの自由研究は、家庭、保護者の姿を作品に見つけることができると思っている。実際は、保護者がなんらかの形で、協力している自由研究が多くなっている。アドバイスをすることもあるし、材料集めをいっしょにやってくれたり、作るのを手伝ってくれたり。親の手が入っている研究成果物を見て、「がんばってくれているんだな」と思う教員は多い。少なくとも私はそう思う。
親によっては、何人も子どもがいて、「あんたの宿題でしょ、あんたがやればいいじゃないの、なんで親に手伝ってもらおうとするの!そんなヒマじゃないんだから」と突き放していうこともある。だが、忙しいからこそ、こんなときくらい、子どもといっしょになにかチャレンジしてみたらと思うのだ。
自由研究は子どもや親を自由にしない。でも、子どもは、親といっしょになにかをいっしょにやっているとき、まんざらでもない顔をしているものだ。きっと「いやだなぁ」といいながら、できあがると、みんなに自慢するのも自由研究なのだ。親子でちょっと遊びませんか?
岡崎 勝 おかざき・まさる 小学校教員。お・は編集人
生き方を知る絶好の機会だ
林 丈二
イラストレーター・路上観察家
母親が保存しておいてくれた小学校一年生?三年生までの作品や作文、テストとかを調べてみたんだ。唯一、研究らしいものといえば、これかな(写真参照)。春夏秋冬に分けて、観察したものを絵と文章で表してある。その中の春が傑作。「毛虫の毛は43本ありました」って書いてあるけど、まったくのインチキですよ。よく見ると、自分が描いた絵の毛を数えているだけ。それを堂々と「43本あった」って書いちゃうところがスゴイ。三年生になるとこれぐらいの知恵はつくんですね(笑)。
もう少し説明すると、最初の観察という目的が途中で変わってしまい、それらしく見せることに興味が移ってしまった。どこかで辻褄を合わせなければいけないとすれば、これも生きていくための知恵だと思います。できる子はいいんですが、全部まともにこなそうとしたらたいへんでしょ。
壁だって、かならずしも乗り越えたり克服しようとしなくていいと思う。迂回したり、引き返す手だってある。僕は壁をおもしろがり、なぜここにシミがあるのか、どこまで続くのか、うしろはどうなっているかを見てみようとするタイプ。そんな生き方もあるんじゃないですか。まあ、社会や組織の重要なポストにはつけないですけどね(笑)。
おおげさないいかたをすれば、夏休みの自由研究は自分の生き方を見つける絶好の機会かもしれません。自分が好きなこと、おもしろいと思うことを自分のやり方でできるんですから。自分がどんなタイプかもわかる。
さっきの毛虫の毛だって、まず自分がおもしろがり、それを認め評価してくれる大人がいれば、その子は将来、小説家になるかもしれないし、はたまた詐欺師になるかもしれない(笑)。いろんな可能性があるってことですよ。
抜粋
にらめっこのバイブル:こども・きょういく・がっこうBOOK『おそい・はやい・たかい・ひくい』N0.50より抜粋