「気持ちの整理 つく日は来るか」
3月上旬、津波で行方が分からなくなっていた気仙沼市の小野寺徳男さん(当時73)の遺骨が、4年ぶりに家族の元に戻った。市役所で遺骨を受け取った長女の松尾明美さんは「見つかって嬉しいのと、(生きていることを)あきらめきれない思い。どちらもあります」と前置きしつつ、「4年たって戻ってきたかったんでしょう」と自分を納得させるように話した。
遺骨は骨盤だけ。沖合約3㌔の海中で今年1月、漁師の芳賀功さん(76)が刺し網漁中で引き揚げて警察に届けた。そして2カ月足らずで小野寺さんと判明。DNA鑑定は2年以上かかることも珍しくないので、早い方だ。芳賀さんは「帰れてよかった」と喜んだが、実は自分の兄とその息子が行方不明のままだ。「あれの(2人の遺骨)だったらなって、ちょっと思って。何でもいいから揚がってくんねえかな」。聞き取れないような声で言い残した。
どの遺族も身内を失ったことに変わりはなく、遺骨が戻っても素直に喜べはしない。それでも、「ある」と「ない」では気の持ちようが全然違う。そんな差が積もってか、時が立つほど口が重くなる人もいるようだ。
3月11日の追悼式典。気仙沼市と仙台市は今年から「遺族の言葉」をやめた。両市とも「これまで無理にお願いして精神的負担をかけていたかもしれない」「まだ気持ちの整理がついていない市民も多いはずだ」という理由だ。やっぱりそうなのかなあ。「まだ」なのか、「時がたつほど」か、勿論、人それぞれなんだろうけれど。
自動車販売業の横田瑞夫さん(73)は、津波で妻(当時63)と長女(当時38)を亡くした。自宅と店舗、商品の車50台も流された。店は震災1カ月後に山あいの土地を間借りして再開したが、三陸道工事のため立ち退きに。仕方ないので、元の土地を自分でかさ上げして店舗を建設。これも来年以降には復興事業のために移転しなければならない。
そんな生活を送りながら昨年3月、店の敷地に震災遺児のための募金箱を置いた。今年3月、中を開ける際にお邪魔していろいろ質問した。「失礼ですが、亡くなられた家族は小さなお子さんではないのに、どうして震災遺児なんですか」「当時、横田さんご自身はどこにおられたんですか」。このどちらかに対して、「そのへんはあまり話したくないんだよね」と断られてしまった。
こうはっきり言われると助かるような、困るような。それにしても、話したくない訳を知ることはできなかった。