vol.159 記者雑感 From気仙沼-(Vol.12)

159記者雑感

 わずか6区画ながら、防災集団移転用地の造成工事が気仙沼で初めて完成した。2100戸の災害公営住宅と、980区画の集団移転。公的な住宅再建の二本柱の一つが震災4年目に入って、ようやく形になった。早い世帯は、年内にも新居での生活を始める。

 山間部を切り開き、制度上限の1区画100坪(330平方メートル)の宅地を作った。1区画の費用は約2千万円。都会では100坪なんて考えられない。市職員に「広くて安い」と言うと、「あそこで2千万円なんかありえない」。各務原市では、蘇原沢上町や那加信長町とほぼ同じ値段だ(2014年国交省公示地価)。そうか。確かにありえない。 

集会所や周辺の道路を作ったら、単価は更に膨らむ。被災者はこれを、安い時価で買うことも借りることもできる。恵まれているのは間違いない。が、完成した宅地に立つと、「やっとここまで」という思いを抑えられなかった。

その2日後。別の山あいに、バッティングセンターが完成した。作ったのは、津波で妻と2人の娘を亡くした千葉清英さん(44)。野球少年の長男、瑛太さん(12)の気を紛らわそうと、岩手県のバッティングセンターに通ううち、「遠い。気仙沼に作って」と頼まれた。

 本業の乳製品販売の復活も見えないなか、「希望の飲むヨーグルト」を首都圏で売るなどして資金を稼いだ。プロ野球界が知るところとなり、著名選手やOBがPRに力を貸した。そうして完成したバッティングセンターには、投球ゲーム機や卓球台も備えた。野球少年だけでなく、ストレスを抱えたお年寄りや女性が発散できる場所にしたかったからだ。オープン初日、おじいさんと少年2人が連れだって来店するのを見て、つい、涙した。
 漁港周辺も少しずつ賑わいを取り戻しつつある。震災前は市内最多の年間100万人が訪れた「海の市」は、港町にありがちな観光案内所兼物販の施設。
4~6月に順次再開するが、あえて土産物屋を新規開店する守屋守昭さん(53)のような人もいる。
 経営していた水産加工場は全壊し、従業員53人は経理担当1人を除いて解雇。「また戻ってきて」と頼んだものの、小規模で再開した工場では全員を受け入れられない。がれき処理や建設業に転身した元従業員の話を聞いては、心が痛んだ。復興関連の仕事は、よくてあと数年。長く雇用できる場を作ろうと、小売りに乗り出した。印象に残った言葉は、「何十年もかけてできた街や会社が、すぐに戻る方がおかしい」。だから少しずつ、できれば独力で、歩む。

そんな芽が、少しずつ見えてきた震災4年目。ただ、まだ「芽」でしかない。