暮らし上手 -医・食「続・腸のおはなし」

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直感力を身につけ世界とつながる

私たちの祖先である初期の脊椎動物は、単純な神経索(神経の束)と消化管(腸)だけで生存していたと言われています。こうした原始生物は人間のように思索することはありませんが、生きている以上何事か感じてはいたはずです。
つまり生物は「頭」ではなく、まず「腸」で感じている。その感情が神経を通じて筋肉に伝わり行為が生まれる。少なくとも原始生物はこのようにして生きているわけです。

生物レベルの「感じる力」のうえに新たな「考える力」が加わった

進化した生物であるならば、本来この2つの力を使いこなせなくてはなりません。「心」や「感情」の先にはさらに曖昧模糊とした意識の世界が控えています。それは「霊」の世界が控えているからです。霊などと言えば、科学や医学の対象ではないと忌避する人もいるかもしれません。が、必ずしもそうとは言えません。この点を無視してしまうと、人がより良く生きていくために不可欠な「直感力」や「人格」の本質が捉えにくくなってしまうからです。健康の定義についてWHOでは「身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態であり、単に病気や虚弱ではないという事ではない」と明記しています。ここでいう「精神的」とは心の状態を指したもので「霊的」という表現とは意味合いが違います。
では「霊」とはいったいなにか?

「心で感じること」と「ひらめくこと」はイコールではない

霊と心の違いがピンとこない人は、両者を「直観」と「感情」という言葉に置き換えてみてください。直観は「外部からの情報をキャッチする」アンテナのようなイメージ。これは「腸に宿っている」と言われる感情(心)とはどこかしら性質が異なっていることがわかるでしょう。
では、アンテナはどこに付いていると考えか?たとえば、野生動物を思い浮かべてください。何も考えず、感じるままに行動することができるから、考えて行動する人間と比べはるかにナチュラルな動きができます。思ったことが行為に直結しないのであれば、それは「思いつき」に過ぎません。野生動物がそんな思いつきで行動していたらとても生きていられません。

感じる→心 (腸) 考える→頭 (脳) ひらめく→???

昔の人は「ひらめく=直観する」ことを「霊」という概念と結びつけ「霊感」などと呼んできました。どこか敬遠されがちな霊という概念も、人間の生理と結びつけ極力「科学の目」で捕らえなければならない感覚のひとつと言えるのです。
また、霊という言葉には、こうした「ひらめき」や「直観」だけでなく、「人格」や「品格」などという言葉とも重なり合います。そもそもこの「品格」は、外国人には伝わりにくい面を持っています。日本の武道の世界では心技体の「心」の部分に、勝負には直接関わりのない「品格」という概念を内包させるため、勝負を重視する競技スポーツとは相いれない面があるのです。なぜなら「心は死んだらなくなるが、霊はなくならない」。つまり、永遠普遍に続くものを求める感覚をどこかで持っているからです。

直感は脳ではなく「尾骨=しっぽ」でキャッチされる

心(感情)は消化管である腸と密接なつながりがあります。直観の場合、神経との関わりが深いことが想像できます。外界の刺激をキャッチするのは神経の役割ですが、神経は体中に張り巡らされています。肝心のアンテナは一体どこに立っているのでしょうか?私たちの体の構造をふまえた場合、脳と対極にある尾骨の神経がアンテナにふさわしいことが見えてきます。たった一対ですが、この神経がキャッチした情報は行為の起点である仙骨に即座に伝わります。野生動物の俊敏な動きは、この尾骨と仙骨の連動として捉えた方が理にかなっています。脊椎動物の歴史だけを見てもゆうに5億年以上の歳月が流れています。脳が生み出す「思考」よりも、脊髄に由来する「直観」、腸管に由来する「感情」「本能」のほうが遥かに古いでしょう。
体の感覚として捉えれば、自明のことであるはずが、人は数億年にわたって、脳を特異に発達させてきた結果、どうしても「頭で考える」ことに囚われ、それが
自分そのものであると思い込む傾向にあります。仏教の世界ではこうした脳に意識が偏った状態を「無明」と表現しています。これは「体を持って生きることを忘れてしまった」状態であると言えます。

こうして生きているのに生きている実感がない

この無明から抜け出すには、脳にばかり意識が偏った「頭でっかち」の状態に気づき、「意識の中心を肉体の中心に重ね合わせる」必要があります。それが座禅することの意味であり、この中心を重ね合わせる練習をくり返す中で「直観の回路とつながる=悟る」という体験が得られることになります。もちろん、「ハラ=下半身」には仙骨と尾骨だけでなく、感情の源と言っていい「腸」がどんと控え、しかも本能の母体である生殖器も隣接しています。つまり、ハラに意識を下ろすという事は必然的にこうした強烈な「生」のエネルギーと対峙することを意味します。

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01この「つながっている」という感覚があれば、自分自身に脳力があろうがなかろうが、自信を持って生きていけるはずです。「頭で考える」という事から離れることができれば、その分、直感力もつきやすくなるでしょう。しかし、直観がしばしば「当てにならないもの」とされてしまうのは、頭(脳)で考えた「思いつき」に過ぎないからで、「しっぽ」でキャッチした「直観」と同じものではありません。私たちがなにかに悩み、たえず葛藤するのは、自分の本心を見失っているからで、脳が特異に発達し「生物である自分」から遠ざかってしまった人間の宿命かもしれません。そこで注目されるのが「ハラの自分」のもう一つの側面である「腸」の働きです。腸には、感情(心)とのつながりを問う以前に食べ物を消化・吸収・排泄する消化管としての役割も与えられています。食事が乱れて、腸の働きが低下すれば、それは感情の劣化となって現れます。肉体的には腸に便が停滞し、腐敗して悪玉菌がはびこっている状態であり、それは「心の曇り」とも重なり合うでしょう。

生物であるということ、そして、食べることで生きているということ

ここをスタート地点として、「私」という存在を捉え直すと、この時代に生きる私たちが何を失ってしまったか?何を取り戻せばいいのか?その答えが見えてくるはずです。変わっていく主体は自分自身にあります。社会に変化を求めてしまうと変化は往々にして手に届かなくなりますが、自分が変わるということだけ意識したらどうでしょうか?自分自身が生物であるということを突き詰めていくと、消化管である腸の存在が大きく浮かび上がってきます。その腸から栄養が運ばれることで活動する細胞、その細胞を活かすためのエネルギーを生み出しているミトコンドリア。腸ー細胞ーミトコンドリア このつながりのなかに自分自身を変えていく答えが無数に隠されています。漠然とした心や意識の世界も、こうした「生物としての自分」と決して無縁ではありません。むしろ、このつながりを大事にして、まずは体を元気にすること。そのために食べることの本質を捉え直してみること。
世の中が行き詰まってしまったのは、こうしたつながりを見失い、体を置き去りにし、頭の中で創り出した理屈ばかりで生きてきたからなのです。

『心と身体を変える【底力】は【腸】にある腸脳力』より
生命科学情報室代表・サイエンスライター長沼敬憲・著