vol.205 続・ぎむきょーるーむ 

一歳八ヶ月の子でも話せばわかる
保育園の父母会で一年が終わって、忘年会をしようということになり、あるおうちにみんなで集まりました。その中の一人のお母さんが「これから仕事にいきます。この子をよろしくお願いします」と言って、子どもが遊んでいるすきに退出しました。しばらくするとママがいないことに気がついてその子は「ママがいない」と言って泣き始めました。メンバーの中には幼稚園の先生がいたり、共同保育をしている方がいて「ケンちゃん、男なのに泣くなんておかしいよ」「いつも泣かずにお留守番しているのに今日はどうしたの?」とみんなでその子を慰めました。ところが大人が声をかければかけるほど「わぁっ」と怒るというか、泣き声が高くなっていく。泣き止むどころか、手がつけられない状態になったのです。 その時私はふっと気がついて「ケンちゃんは、お母さんが黙ってお仕事に行ったから怒っているんだね」と大きな子どもに話すように話しました。すると「うん」と頷き、火のついていたように泣いていたのも、ちょっと和らぎました。
「ケンちゃんはお母さんが断って行ったら、今日はみんながいるから待てたのに、それがないから怒っているんだね」と続けると、再び「うん」と頷きます。さらに「ママが黙って出かけて行ったのは悪かった。ママが帰ってきたら、ケンちゃんが泣いて怒ったということをちゃんとお話ししておくからね。ただ、今日はお母さんが帰ってくるまでみんなで遊んで待っているから安心していいんだよ」と話したら泣き止みました。
一歳八ヶ月だけど、話せばわかるのです。だけど、彼はまだ一歳八ヶ月だから自分では話せず、主張が通じないために泣き、泣き方をエスカレートするしかなかった。だけどちゃんと筋道を立てて話したら、彼は納得した。一歳八ヶ月でも言い分はあ る、子どもの話をちゃんと聴き、子どものいいたいこと、いってみたら気持ちを翻訳する。そのことが子ども相談ではとても大事なことだと気がつきました。そのことを心がけるようになると、子どもが次々おもしい顔を見せてくれるようになりました。このケンちゃんは私にとってある意味で師匠です。何かの時に、ケンちゃんの泣き顔と情景が今でも思い出されます。

親子が対等な関係になるために
—こういう認識を持つようになったのは、いつ頃からなのでしょう?
内田:私は子どもが一歳半の時、1973年から保健所で心理相談員を始めましたが、その時代はもう核家族化している状況で、子どものことでなにかあると、やっぱり「母親の育て方が悪い」といわれていました。それで、「育て方が悪い」「未熟だ」などといわれ、「母原病」とされ母親に責任が来る。
そういう時代状況の中で子育てをしていたので、私のなかに「お母さん」と呼ばれたくないという思いがありました。それからもう一つ、「奥さん」と呼ばれたくない。やっぱり一人の人として名前で呼んでもらえるような、そういう人生を歩いていきたいと、思っていました。ですから、上の子が生まれて、私たちの生活に子供がやってきたのはすごくうれしかったのですが、お互いに「お父さん」「お母さん」と夫婦で呼び合うことはしませんでした。生活をともにして以来、私は「りょうさん」で、夫は「ゆうさん」と名前で呼びあっていたので、そのままにしていました。すると、子どもが口をきけるようになった時、当然のことながら私のことを「りょうちゃん」と呼んだのです。だから、「お母さん」と呼ばれる人は家の中にいなかった。
子どもは親の生活を見て学ぶので、私のことを「りょうさん」、夫のことを「ゆうさん」と名前で呼んでくれるようになりました。自然に子どもが名前で呼んでくれる関係になってみたら、それは心地がいい。いくら子どもが幼くても一人の人間として尊重し、お互いに名前で呼び合う関係だと親風は吹かせられないです。

子どもから問われるのは、親の生き方
—どうしても「お母さん」という役割から子どもを見てしまいがちです。
内田:親子関係において、「思うように子どもが動きません」というのは、そういうことです。
例えば、学校に行くことも、勉強をすることも、就職することもそうですが、本当に「子どもと親は別の人格」ということ。そのことを親御さんに伝えたあと、「『お母さんはこう思う』ではなく、一人称で『私はこう思う』というようになったら、子どもとの関係が五分五分で対等になってきました。子どもから物やお茶碗が飛んでくることが、本当に減りました」というお話を聞きます。
親子が「対等な関係」をどう作っていくかを考えるときに、私自身が子どもと一緒につくりあった家庭・家族の関係が参考になったと思います。
子どものことが過度に心配な時は、親はむしろ自分自身をまっ正面から見るのが不安な現実を、家庭的にもっている場合も、社会的にもっている場合も、個人的にもっている場合もあるのだと思います。自分の問題が正視できないほど深刻な時は、子どもの心配に意識をスライドさせることが現実からの逃げ道になります。
「モモの部屋」のつどいの最後は、いつも「自分の生き方に返ってくるよね」というところで終わります。私たち大人が不登校・ひきこもりの理解をもってわが子とどう生きるか。自己実現しながら自分の人生を生きているか、そういうことを子どもから絶えず問われているということが、多分あるのではないかと思います。

「命が大事」という原点
1章では、内田さんの生い立ちから、心理室での仕事を始めた1970年前半、心理室に訪れる子どもたちとの出会い、「モモの部屋」を開設するまで。それは「不登校」「ひきこもり」が大きな社会問題になっていく時間と重なっています。問題を親子関係や家庭環境に見出そうとする風潮は強く長くありました。学校からはできるだけ早く子どもを登校させることを、社会からは仕事に就かせることを、いかに上手く成し遂げるかを親は求められ、背中を押され続けてきました。追い詰められた親は、子どもを追い詰め、命がけの抵抗を受けることになります。家の中は戦場になります。まずは、親は子どもの命を守り、安心して過ごせる家と家族でなければならないのに。
2章では、「心に傷を負った人」の心の内や回復に必要な道筋について「モモの部屋」のグループ相談の実践を紹介。でもじつは、親が学校に行くべき、就労するべきという心の奥底に根付いた思いを問い直すことは、とても難しいことなのだということも、同時に気づかされるお話。
3章は、親子が悩み苦しんだ「不登校」「ひきこもり」の社会的事象。なぜ、子どもたちは「休む」ことを許されず、親は命をかけたわが子の抵抗を受け止めることができないのか、できなくさせられているのか。子どもたちの抵抗への本当の理解と共感、「学校や就労より子どもの命が大事」という、この視点が欠けては何事もなし得ないでしょう。


内田良子 うちだ・りょうこ
1942年生まれ。心理カウンセラー。1973年より27年間、佼成病院小児科の心理室に勤務。1988年より23年間、NHKラジオ「子どもの心相談」アドバイザー、1998年、子ども相談室「モモの部屋」を開室。登校拒否・不登校・ひきこもりなどの相談会を開く。著書に『カウンセラー良子さんの子育てなぞとき』『幼い子のくらしとこころQ&A』『登校しぶり 登園しぶり』(ジャパンマシニスト社刊)