vol.176 ちぇれめいえproject 渡部 清花さん

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バングラデシュへ
私がバングラデシュに初めて行ったのは小学校一年生の時、家族での旅行でした。その時のことはあまり憶えていませんが、その数年後、教科書の国際協力政治、青年海外協力隊のページにバングラデシュの写真が載っていて、「見たことあるよ、ここ!」と強く印象に残ったんです。
大学生になり、国際文化学科に籍を置きました。開発のことを勉強していて、フィールドワークでバングラデシュの首都に行くことになりました。でも、私が興味を持ち見たかったのは、国から弾圧にあっている人たちがどうやって地域の中で生きていくのか、ということ。それで、いろいろ調べたら、先住民の人たちのことが出てきました。ぜひともそこに行きたいと思ったのですが、大学のゼミのフィールドワークで行けるところではないと。パスポートとビザがあっても行けない地域なんですね。外国人特別入域許可証やらが必要。つい最近まで紛争をしていたので。じゃあ、みんなが帰った後、ひとりで行くのでいいですか?と言ったら、それはハタチ超えているんだからどうぞ、と言われて(笑)その年の夏休みにリュック 背負って行ったんです。大学 3 年生の時です。

 

少数民族の村に暮らす人たち

ちぇれめいえ:バングラデシュの言葉で「子どもたち」

ちぇれめいえ:バングラデシュの言葉で「子どもたち」

首都ダッカからバスで12時間、チッタゴン丘陵地帯。バングラデシュの他の平野部とは違い、山が多く、焼き畑農業をして、50万人の先住民が住んでいます。そこは宗教や食べ物、使う言葉、文化が他のバングラデシュの地域とは違います。そこで私はとても素敵な人たちに出会いました。今日私が着ているのはそのチャクマの民族衣装です。

美しい自然と、昔からの暮らし。おばあちゃん、お母さんからつないで来た命を、次の世代につないでいく。そこでは、地域、家族、親戚、みんなで助けあって暮らすのが当たり前。私は彼らのファンになりました。
大好きな土地だったのですが、紛争の爪痕はずっと残っていました。中央政府から送られて来る軍隊がこの地域に入って来て、家もお寺も焼かれてしまったり、レイプ事件も起きたり・・・。そして、帰国の前日に私が見たのは、とてもきれいだった街が、村が、紛争により荒れた姿でした。車も動かないし、戒厳令や治安維持令とかが出たくらいひどかった。それから3、4年経ってますけど、紛争がいきなり勃発することが今もあるんです。
日本に帰って来てから、私はチッタゴン丘陵地帯という、たまたま出会った場所について、貪るように学びました。私にできること、なにかないかなぁって友だちに話しても、大学3年生は就職活動の時期。同世代の友だちは一緒に活動ができないけど、話しているうちに少しづつ後輩が集まってくれて、「NGOちぇれめいえproject」という団体を立ち上げました。「ちぇれめいえ」とは現地の言葉で「こどもたち」という意味です。

ちぇれめいえの活動

それから私は「NGOちぇれめいえproject」の現地駐在員として大学4年生を休学してバングラデシュに戻りました。お金があまりなかったので、お坊さんと小僧さんにいろんな言葉を教えてもらいながらお寺に住みました。
私たちが取り組んでいたのは、子どものこと、若者のこと、紛争があったときの緊急支援と日本との架け橋でした。子どもたちが安心して学べる環境を生み出したいと、「ちぇれママ&ちぇれパパ制度」という里親制度をつくって、25人の子どもたちを日本から支えることを始めました。中学校卒業まで寄宿舎学校で暮らせて、ご飯も食べられて勉強もできる生活を支えてくれる人たちが日本にいます。
また、バングラデシュの若者と日本の若者が一緒の時間を過ごし、笑い語るという「スタディツアー」も始めました。日本の若者がバングラデシュに行き、2週間一緒に過ごしますが、「どんな家庭に産まれても、子どもたちが教育を受けるにはどうしたらいい?」というようなテーマが毎年あり、答えが出ないようなことを毎日毎日話し合いました。一緒に村を歩くことで見えてくるものもありました。一緒に何かをしたい、そんな現地の若者たちがいたから、これを続けてきました。
1年経った時、現地の若者が「自分たちでも団体をつくるよ」といって「DABAGI(ダバギ)」という団体をつくり「豚で教育資金プロジェクト」という活動を始めました。最初に豚を小学生のいる貧しい家庭5軒に提供、その家庭は豚を育て繁殖させて、半年ごとに産まれる子豚を市場に売り、代金は子どもの教育費に。子豚のうち2匹は「DABAGI」に返し、それを次の貧しい家庭に貸し、その家でもまた同じサイクルができる。そうして村の中でお金と知識を回していくプロジェクトです。

 

国際協力って?

バングラデシュの山岳地帯の少数民族の村で、私は子どもや若者、おばちゃんたちと約2年間を過ごしましたが、家族や地域の強い絆など、現地の人たちの素晴らしさにたくさん出会いました。
今、バングラデシュやアフリカとか、発展途上と言われている国を助けようと、先進国からいろんな人たちが派遣されています。そして、企業やボランティアが人やお金を送っています。まだまだ自分たちの地点まで発展してない、と。でも、世界中の国や地域が「発展」という道の上に、一直線上に並んでいるわけではないと私は思っています。それぞれ、自分の前の道を歩んでいる。バングラは日本が歩いた道を進む必要はないし、ケニアはアメリカにもならないです。
私が過ごした村で人々が教えてくれたことは、村の発展の先の姿が先進国の都市ではないということでした。「ないもの探し」や「つくってあげよう」を前提にすると、「あるもの」が、見えなくなる。「ここにはこんなものがある、文化がある、人がいる」そんな視点が必要です。そして、最初から持ち込むプロジェクトではなく、現地から聞こえて来る必要なことに耳を傾けることも。
国際協力って、一方的に助けることじゃない。共に生きる、お互いに学びあうこと。大げさなことじゃない。それは日本にいる家族・親戚から始められます。
朝、ご近所さんに声をかけてみる。身体の不自由な人に席をゆずってみる。ちょっと離れた地方の活動をのぞいてみる。被災地に関心を持つ。国際協力はこの延長線上にあります。
そして、海を越えたところに住む子どもたちを応援してみる、それって実は楽しいことかもしれません。
私たちがたまたま日本に生まれたから知っていたこと。たまたまこの年代に生まれたからもっているもの、たまたま教育を受けたから学べたこと。それを誰かの幸せのために使えたら、その「うれしい」って気持ちを自分の大好きな人たちと共有できたら、こんな幸せなことはないなって。私は現地の人たちに、教えてもらいました。
静岡県出身・東京都在住

「peace of peace」主催「ワークショプ  世界がもし100人の村だったら、バングラデシュ・バージョン」(1月7日各務原市総合福祉会館)にて

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バングラデシュ人民共和国/インドとミャンマーに国境を接する。1971年にパキスタンから独立。バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。世界で最も人口密度が高い。
チッタゴン丘陵地帯/ジュマ( 焼き畑農業をする人)と総称される先住民族が暮らしている。チャクマ族、マルマ族、トリプラ族など、民族数は12 とも言われている。これら先住民族は、先住民族はいないとするバングラデシュ政府の同化政策によって迫害を受けている。

勉強中の子どもたち

渡部 清花(わたなべ さやか)
東京大学大学院総合文化研究科・国際社会科学専攻・人間の安全保障プログラム修士。
静岡文化芸術大学在学中に、「NGOちぇれめいえproject」を設立し、バングラデシュのチッタゴン丘陵地帯にて、先住民族の子どもの教育と現地の若者による村おこしの取り組みを後押し。その後、UNDP(国連開発計画)の現地事務所の平和構築プログラムのインターンシップに参加。合計2年弱、バングラデシュに滞在し、現地の支援と日本への情報発信を続けた。現在も「NGOちぇれめいえproject」の活動を続け、日本からの支援を呼びかけている。





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