自分らしい「骨壺」を作ろう!
水上勉には、もうひとつ“道楽”があった。それは骨壺を作ることである。とはいっても、人間が死ぬのは一度だけであるから、骨壺などひとつあればよさそうなものだが、彼は釉薬を工夫したり、土を変えてみたりして、いくつも作りつづけたそうだ。その来歴を振り返って、彼はこう綴る。
《九歳で京都の禅寺に入った私は、葬式や枕経をよみによくいったので、人の死には子供の時分から馴染んだと思う。京都の火葬場は、当時、北山にあって、のち等持院に入寺し、金閣寺の前を通って、大徳寺の般若林に通学したのでその火葬場へもよくゆき、骨壺も見た。日本の骨壺は、味けないものが多かった。(略)白い手袋をはめた人が、おもむろにとりだす壺は、量産品の顔をしていて、つまらぬものだった。(略)味けない骨壺は、のちに寺を出て大人になってから、友人知己の葬祭にゆくたびに、思いをあらためさせられた。なぜに、苦労多い人生を果てたのに、オリジナルな壺に入って楽しまないのだろうか。》(「骨壺の話」)
画廊の追悼展の一角に、大小ふたつの骨壺が置かれていた。それは作者の骨を収めるためには選ばれず、いわば骨壺たる役目から免除された骨壺であった。ぼくは実際に骨壺をつぶさに見た覚えがなかったので、水上が“味けない”と評した一般的な骨壺がどのようなものか知らないのだが、そこに陳列されていた骨壺はつやっぽい光沢を放ち、墓の下に埋もれさせるには確かに美しすぎるようだった。
だが彼は、こんな骨壺だったら中に入ってやってもいい、などと思いながら作ったのかもしれない。心筋梗塞から奇跡的に快復したとき、担当医師は「一万人にひとりの生還」と評したという。しかし水上の心臓は3分の2が壊死してしまい、その後もリューマチや悪性腫瘍、網膜剥離などに悩まされつづけた晩年だった。彼は着実に近づいてくる“死”と向き合い、腹を割って語り合ったことだろう。妙な言い方だが、“死”と酒を酌み交わしたこともあったかもしれない。“死”を遠ざけるのではなく、引き寄せるのでもなく、ほどよい距離を保って、うまく付き合おうとしていたのだろう。それは楽しくもあり、哀しくもある。骨壺を作って“死”に備えることが、すなわち生きることであるというのは、笑いながら涙をこぼすことと似ている。
彼の“死”との付き合い方は、徹底していた。例えばこんなふうにだ。
《月の半分以上は、信州の北御牧村で仕事をしているので、山の家の寝室も棺桶ふうにつくってある。ま四角の一メートル八〇、一間計算で三坪の部屋だが、なるべく、棺桶のイメージに似せて、板で囲い、むろん板床の上にベッドを置いている。ほかには、本棚の本と机がわきにあるだけ、あとは何もない。時に段ボール箱に入れたシャツだの、下着だのが入っているが、そんな殺風景な部屋をベッドに入る直前に一べつして、私は死ぬまねをする。「さようなら」とまっ暗闇の中で、声をだして誰にともなくいうのである。信州の場合は東京の妻と、障害を背負うている娘に長生きしてほしいというのである。よそにいるもう一人の娘にもいうのだ。そうして、私は、友人の誰彼と名はあげぬまでも、時々、日頃世話になっている人の顔を思いうかべながら、「さようなら」といい、仰向けになり、胸もとで手を合わせ組むのである。「さようなら、みなさん」》(「死ぬこと」)
往年の名女優サラ・ベルナールも、棺桶に薔薇の花を飾り立て、そこに入って寝ていたという。なぜそんなことをしていたのか、ぼくは詳しく知らないが、水上勉の心理はそれとは別のものだったろう。彼はこうつづける。
《死んだはずの夜があけた朝は気分がよい。ゆうべ死んだのだから、儲けたような気がするのである。これがいい。その日一日が儲け。おまけである。私はこの一日に雨がふればそれもうれしい。お天気なら尚更うれしい。どっちにしろ、二十四時間のおまけにもらったその一日を自由に送るのだ。自由に、誰に気がねもいらぬ一日を、好きなように生きるのである。このような朝がむかえられるのも、死んだればこそのことだと思う。》(同)
2004年9月8日の朝は、水上勉にとって最後の夜明けだった。多くの文学作品のほかに、手漉きの竹紙に描いた絵と、手作りの骨壺と、それにたくさんの人々への思いを遺して、彼は逝った。85歳だった。後日「お別れの会」が開かれ、祭壇は45本もの竹に囲まれたという。彼は今、みずから作った骨壺の中で眠っている。水上勉が残したもの てつりう美術随想録より
えっ?「骨つぼ」を自分で作る!?はい、そのとおり!
アクティバでは、農的生活の提案や生前準備ノート・『ゼロの昇天』の書き込みのワークショップ、自分の葬儀をデザインするなど様々な取り組みをしています。今回は、自分の生き様を反映させた、オリジナル骨つぼを作りました。
講師の柴田氏により、予め成形された各種の骨つぼにオリジナルな模様、切り口(フタ)、を工夫する参加者達。粘土の固まりからつくる人も。それぞれに個性がひかって、焼き上がりが楽しみ。
骨つぼ。それは終の棲家、と考えると、居心地のいい「つぼ」を作りたくなりませんか?というわけで、実際に作ってみることに。それがなかなか難しい。とりあえずペットのを作ってみようという人や、いやいやこだわりの自分のつぼを!と熱いひとときとなりました。
骨つぼ・あ・ら・かると
沖縄の骨つぼは「厨子がめ(ジーシーガーミまたはズシガメ)中国風のコンパクトな家の形。昔は風葬や土葬の後にきれいに洗骨し収めていた。写真のズシガメは豪華ですが、位の低い人ほど飾りもなく質素でした。
ヘレニズム時代の間(前4世紀より)エトルリアの都市の工房は、死者の遺灰の収納を目的とした、多彩な雪花石膏製の骨壷の大量生産していた。これら骨壷は定番で、容器は通常、神話または埋葬に関する場面で装飾され、高浮彫にて加工される。対して死者は蓋の上に宴会に参加する姿勢で、蓋の上に下半身を寝かせた様子で表されている。
中国では、骨壺は生きているうちに用意すると長寿のお守りとして知られている。故人の写真を入れるために、どの骨壺にも真ん中に丸や四角の窪みがあります。
フランスでは、骨壺を持ち帰ってリビングなどに置いておく遺族が多く、一見骨壺と分からない美しいものが好まれる。木製、銅製、陶器、メッキ仕上げなど、色・素材共にさまざまな骨壺のバリエーションがある点は日本との大きな違い。
スポーツにちなんだボール型骨つぼも登場!
リビングに家族に囲まれて、あのころの熱い思い出をいつも一緒に。ボール型の各種骨つぼもあり。粋な計らいか、その人らしい器で。