VOL.148 記者雑感 From 気仙沼 何もわからない・・・現場で痛感

何もわからない… 現場で痛感。

南風が吹くと、特に晴れた日は何とも言えない臭いが市内に漂う。やったことはないが、鶏糞の袋に頭を突っ込んだ感じか。水産加工業者の冷蔵庫跡の瓦礫に、魚介類が混じっているためだ。
気仙沼漁港はカツオの水揚げが15年連続で日本一。震災でガタガタになった港を昨年6月までに一部修復し、首位を守った。ただ、水産の街と言われるのは、市場が大きいせいだけではない。加工業者が多様で、サメでも何でも、「揚げれば買ってくれる」という信頼感ゆえだ。だから港周辺には、氷屋、容器屋、冷蔵・冷凍庫など、関連施設が沢山あった。
津波で貯蔵庫から流れた水産物は、宮城県の方針で海に捨てられた。しかし、倒壊しそうな建物に残った場合は放置せざるを得なかった。蛋白質混じりの瓦礫が今もあるのはそのせいだ。
4月に岐阜から当地に来た。1年以上たつのにどうなっているんだと思った。漁業の始末に限らず、書店や車用品店など大型店舗は骨組みをさらしたままの所が多い。住宅は流されるか、撤去されているのに。とはいえ、少しずつ大型店舗の解体も始まった。そうすると、足首から下だけの遺体も見つかる。警察は靴や靴下の特徴を詳細に発表する。気仙沼市の死者は1035人、うち身元不明者は41人。行方不明は280人いる(6月12日現在)。
「復興」の道のりを知りたくて赴任した。新設する防潮堤の高さは? 集団移転の世帯数は? 食品の扱いはどうなっているの? などなど。が、魚瓦礫や足首遺体に接した今、そればかり追うのは違うのではないかという気がしている。
父親の影響で、中学時代に起きたチェルノブイリの原発事故に関心を持った。今回の政府の食品の放射性物質基準にも疑問を持ち、記事を書いてきたつもりだ。
けれども、核心に迫れると思って来た現場では、何も知らないという事実を突きつけられただけだった。誰に何を聞いて、どう伝えればいいのか。全く分からない。
少し前の新聞に書いたコラムは、地元紙の記者の発言で始めた。「市民は支援疲れしているのです」。毎日のように寄付や支援イベントがあって、動員をかけられる人々が疲弊しているという内容だ。表向きは「ありがたい」「助かる」と言う人たちも、裏では確かに「置き場所に困る」なんてつぶやいている。本音は本音。正しいかどうかはまた別。誰も判断できない。
もっと複雑なのは、やはり放射能。「カツオは回遊魚だから、泳いでいるうちにセシウムが抜けてしまう」説がそこそこ流布している。「都会は放射線アレルギーだ」という声も上がる。ここに来る前ならば、それは違うと反論しただろう。でも、取引先に切られ、水揚げを「自粛」させられながら網を手入れしている漁師と話していると、言葉が出ない。

 

NO310:津波でほとんどの建物が壊れた南気仙沼地区。まだ解体されていない大型の建物も残る/4月21日  01
1426:5月3日からの豪雨で、仮設住宅の一部は床下浸水した/5月4日 02
1643:水産加工会社の冷蔵庫跡には魚の残骸を含んだがれきが残る/5月30日 03
1435:津波の後、火災に襲われた鹿折(ししおり)地区。地盤沈下しているため、雨が降ると一面水浸しになる。奥に見えるのは打ち上げられた共徳丸/5月4日  04

 

プロフィール

現役新聞記者(宮城県・気仙沼在住)
私のいる事務所兼住居は、1階の浸水のみですみましたが、3軒隣の警察署も、少し離れた小学校も解体です。節電といわずとも、家の周辺は真っ暗。人がいないから…街灯もいらないわけで…これから、気仙沼で自分の見たまま感じたままをお届けします。