KIYO:どういういきさつでアーティストになったのですか?
まゆみ:3才から絵を描くでしょ、みんな。やめなかっただけですよ。6才の時に描いた絵と、今もなんにも変わらないんですよ。上手だとみんながほめてくれた。
KIYO:それで東京芸大に?
まゆみ:2年浪人しましたよ。工芸科で染色を習った。実は私、大学一年で結婚しちゃったの。夫はアメリカ人で大江健三郎とか三島由紀夫の翻訳をしていた人。それで、大学の時に面白い作家たちに、いっぱいいろんなこと教えてもらった。それからニューヨークに渡った。それが1966年。60年代のアメリカはベトナム戦争の真っ最中で大変な時期でした。私は男の子を生むんですが、だんだんおっぱいが大きくなって、お腹が大きくなって、女の人の力強さを感じ、それで女神を描くようになったんです。それがアメリカですごく受け容れられた。私ね、アーティストっていうのは、社会の望みを無意識的に感じられる人だと思うんです。
KIYO:アメリカでは超有名な人Mayumi Oda。外国人の心には何か特殊な印象を与えるのではないでしょうか?
まゆみ:アメリカというか西洋は、アートと生活は別々なの。日本は生活様式そのものがアートでしょ。だから私なんかの絵なんか要らないんじゃないかと。
KIYO:それはないよ、あなたの絵でぼくは救われている。えっと、それからニューヨークからハワイに移り住むんですよね。
まゆみ:その前にカリフォルニアのグリーンガルチ農場に入ったの。79年の頃から20年近く農業をやり、教えられることがいっぱいだった。1992年に日本が原発にプルトニウム政策に突っ走ったとき六ヶ所村ができた。同時に私は絵をやめて「脱原発・反原発」の運動に10年近く関わったんです。私たちは太陽、風力で分散型のエネルギーになれば原発はいらないと、自然エネルギー推進運動に深く関わりました。そして50歳になって日本で何をやろうか、と思ったとき『わら一本の革命』の著者:福岡先生のところに行った。既に農業をやっていたから、私にとっては神さまみたいな人。種団子を作って、砂漠に撒いて、地球温暖化を止めよう!と本気で思った。そして2011年、ぜったいに事故は起きないという安全神話が3.11の地震であっけなく崩れた…。
KIYO:原発事故のあった後に、僕はすぐ引っ越した。80年代後半から原子力問題に危機感を感じていました。
まゆみ:原発と食べ物。本当に抱き合わせで悪くなっている。私の家族が東京に住んでいたので、家族が安心して食べられるものを作ってあげようと思った。誰かが大変なときには、こうやって生きていたら大丈夫だよ!という事を実践しなきゃと思った。でも私もう72歳でしょ。この年で農業をといってもたいへんですよね。だから若い人を教育しながら一緒に畑をやってもらおうと思ってハワイに6000坪の土地を取得しました。開墾からはじめて1、2年で作物がとれるようになったけど、土作りをして、果物が食べられるまでに11年かかりましたよ。
KIYO:そこをジンジャーヒルファームと名付けた。
まゆみ:ジンジャーヒルだから、ウコンを植えたの。ウコンは肝臓・腎臓にすごくいい。放射能がひどくなったら一番効力がある!と一生懸命ウコンを作りました。そのほか果物、野菜などの食べ物はほとんど自給できるようになりました。
女神というのは女だけじゃない、やさしい利他というか、人のためにやるって、自分が宇宙とひとつだと思ったら、他の人にもよくしなきゃって。そういう気持ちをトレーンニングする。私ね、この世で一番幸せな人は、畑で作って食べられる人だと思うの。だから、食事の前には必ずお祈りをします。
「この食べ物は全宇宙からいただいたもの。大地、海、空、そしてたくさんの人々の労働。それをいただくのに値する人になれますように。私たちの親切な心に変えて、むさぼらない食べ方を学べますように。この食べ物が私たちの力になり、病気から守ってくれますように。理解と愛の道をあるくことができますように。今地球でたくさんの人々が飢えで苦しんでいることを忘れないように、この食事をいただきます」
ちょっと長いんだけど、お祈りしている時間に、食べ物と自分たちの身体が食べ物からできている、それはみんなの労力からできている、ありがたいねと実感できるんです。そして、畑の作業もお祈りしながらするの。
ここのコミュニティーも、在来種のお茶の木をしっかり次世代に残していけるよう、人がつながっていくことを望みます。 (文責・にらめっこ)