vol.220 続しょうがいをみつめる vol.2

『普通とはなんでしょうか』

「普通になりたいんです」
大人の自閉スペクトラム症の人たちと話をしていると、しばしばこういった願いを聞くことがあります。

自閉スペクトラム症とは、ものごとのとらえ方や感じ方に偏りがあり、いわゆるフツー(定型発達、多数派などと言うこともあります)の人たちと異なった考え方や行動をするために、社会生活において不都合が生じている状態の人に名付けられる障害名です。
彼らの考え方や行動がいわゆるフツーの人と異なるというのは、単なる脳の働きの違いであり、間違いでも異常なわけでもありません。
しかし、現在の学校や社会ではその差異が悪目立ちしてしまうことが多く、本人も周りの人も普通である(になる)ことを望み、求めます。
彼らは普通になるため、いわゆるフツーの人の言動を注意深く観察し、真似をします。観察と真似が上手な人は発達障害だと気付かれないほどです。
「変わった発言をしてしまわないよう聞き役になればいいと思った」、「全然興味のないアイドルの話題についていくのに必死だった」
これらは、自閉スペクトラム症の人たちから聞いた、彼らが普通になるために取った対処行動の例です。社会的カモフラージュ行動とも言います。
社会的カモフラージュ行動は、言ってみれば本来の自分の考え方や行動を無理矢理変えて生活をするということなので、それが続くと心と体に無理がたたって不調が生じやすくなります。実際、学校や仕事に行くだけでヘトヘトになり、家ではほとんど動けないほど疲弊しているという自閉スペクトラム症の人に何人も出会ったことがあります。

彼らをここまで縛り付ける『普通』とは一体なんでしょうか。考えてみると『普通』とは、かなり曖昧な言葉です。

 「普通の暮らし」と言った時、年収300万の人にとっての普通と、年収800万の人にとっての普通とは当然異なります。
また、車を所持していることを普通だと考える人もいれば、大学卒業して働いて結婚して子供を儲けることを普通と考える人もいるでしょう。
何(どこ)を基準とするかで『普通』の定義は異なるのですが、それを問題(明確)にすることなく、私たちはごく自然に『普通』という言葉を使ってしまいます。
それは、私たちがいわゆるフツーの人たちで、何が普通かを意識する必要もなく、大抵は普通に過ごせているからです。
自閉スペクトラム症には、「曖昧なものや目に見えないものが分かりにくい」という特徴があります。曖昧で目に見えない『普通』とは、彼らにとっては呪縛なのかもしれません。

近年は社会が多様化し、以前ほど普通にこだわる風潮は弱くなってきたように思います。
ただ、私たちの住む社会はいわゆるフツーの人たちが大勢を占めており、そんなフツーの人たち向けに作られているので、彼ら少数派の人たちの考えや行動は、意識しないとすぐに押し潰されてしまいます。
自分とは違った考えや行動をする人の存在を常に頭の片隅に置き、それも一つの考えや行動だと認めることの積み重ねが、全ての人にとって生きやすい社会を作る第一歩なのではないでしょうか。