vol.198 刻の罠 その後

自分が変えられる 知らず知らずのうちに? 過去が塗り替えられていくことに気づかない。
知るチャンスさえなかったの?

自分を変えられてしまう・・・

文化、芸術の立ち位置が明瞭にあるかないかで
左右される私たちの生活、暮らし。

 衣食住は必然で欠くことができないものと言われてますが、それと同じくらい重要なのが、文化、芸術。この分野があるかないかで、大きく変わる私たちの暮らし。
例えばイメージを具体的な言葉で表すと、
・こころがほぐれる
・ほっこりする
・あんしんする
・こころがうごく
・こころが刺激を受ける
・刺激を受けると発想が豊かになる
・クリエイティブな暮らしか楽しくなる
・価値観が変わる
・こころが動くことを優先したくなる
・衣食住もクリエイティブになる
・世の中の仕組みに違和感を感じて
・食べるものに留意し、
・土を意識し始め、
・手の仕事に価値を見出し、
・貨幣の価値観から距離を置く。
・すると、世界を見る目が変わる。
・貨幣に支配されていることに疑問を持ち、
・支配から距離を置く。
・こころも体も開放感にあふれ、
・こころも体も歓びにあふれ、
・暮らしがより豊かになる。
・文化、芸術がいつのまにかくらしに息づきはじめ、
そして、ついに・すべての人がアーティストになる!

 全ての人がいつのまにかアーティストになる?そんな素敵な罠ならかかりたいと思う。仕掛け人もかっこいいじゃない?!が、「刻の罠」はそうじゃない。
 都合の悪いことには蓋をして、なかったことにしてしまおうという企みが潜み、知らず知らずのうちに「自分が変えられていく」。命の歴史の中で、人は平和を求めながらも、今なお争いや戦争を止めることができず、核や放射能への不安、飢餓や貧困は続いている。「忘れろ!つじつまの合わないことは山ほどあるし、些細な不一致ってことさ」、とささやく声が聴こえる…

「なぜ?」

 罠という漢字の成り立ちを調べると、「民」という漢字は、全体で目を表し、そこに焼いた火箸を突き刺している様子を描いた象形文字で、「ものを見る目を失わされた人」。民の上の「罒」を現在では(よこめ)(よんがしら)などと呼び、「冂」の形の枠に糸を「×」型に無数に編みこんで作った「網(あみ)」を描いた象形文字で、《目の見えない者》を《網》を張って仕掛けるから「罠(わな)」となったもの、とある。『刻の罠』はささやく声に耳を傾けるうちに、本当のことが見えなくなってしまうというシビアなテーマである。しかし舞台では「なんか変だ」、「みんな目を覚まして!」と、小学5年の千杜(せんと)と中学2年の七海が舞台で駆け巡り、メッセージを送る。

刻はひと時も途切れることなく、本当のことを伝えられてきただろうか…記憶を書き換えられてはいないだろうか?

 舞台では、いのちをつないでいく間に起こった大事なことを忘れてはいけない、人はそれぞれに幸せに生きる権利があるし、誰もそれを奪うことはできない。作為的な雰囲気に飲み込まれない、罠にはまったりしないという深層部分を太鼓と芝居で表現している。

 「舞台は言葉が中心だけど、言葉で表現できないこともある。その時に太鼓やしの笛が言葉の代わりに表現する」と座長の末永克行さんはおっしゃったが、言葉と楽器の相乗効果が舞台に現れる。するとその舞台に奥行きが生じる。まるで3Dのように。演者の表現が四方八方から体に届く。文化、芸術の真髄とも言える“心が震える”感覚を覚え、同時に今まさにこの感覚に飢えている自分を自覚した。太鼓の音、太鼓の振動は体にある毒を排出させてくれるようだ。音が皮膚から入って、振動が体の奥に浸透してから出ていく。それは体が浄化されていくイメージ。そこにしの笛の音色。これは頭のてっぺんから入ってきて骨の髄に染み込む。そしてそれは体に溶け込んで出ていかないのだ。あの繊細な音色は体の細胞に溶け込んで、太鼓とは違う部分を浄化させてくれる。

人は自然と離れていては生きていけない、これは哲学

 太鼓は土の香りがする。私は、人は「土」と離れては生きていけないと思っている。インタビューの中で、末永さんが「人は自然との関わりなくして成り立たない。これはもう哲学だね」と語っていたが、まさにその通りだと思う。
 そして私が感じたのは、この舞台にはとても深い人間賛歌が込められている気がしたことだ。人は気づくことができる、コトを起こすこともできる。今を生きる私たちは、先人たちの英知を受け継ぎ、時を刻みながら学び未来に活かすことができる。決して悲観はしない。戦争を忘れない、核や放射能はいらない、飢餓や貧困をなくしたい、平和は自分たちで作ることができる。自分を変えることなく、信じたことを貫くことができる!そのことを「たまっこ座」という三世代がつながって舞台を作ることで見事に伝えてくれたと思った。
 末永さんは今回の公演で「コロナ禍で何ヶ月も舞台ができなかった。半年ぶりに目標ができ稽古にはいつもとは違う熱が入った。目標があると、こんなにも日々の気持ちが違うのかと思った。希望があれば生きていける。支えてくれる人がいると、自分の力がどんどん引き出される。この公演があったから僕は生きられた。」とコメントされたのが印象的だった。

果敢に取り組んだ「つくる・みらいの会」

ワークの後・たまっこ座のみなさん

 たまっこ座は1985年に創立してはや35年。気がつけば末永さんらは孫たちとともに舞台を踏んでいる。親子三代にわたる編成は世界でも稀有な存在。孫世代は子どもバンド「Baby Boom」としても活躍している。親の背中を見て育つ、まさに環境が人を育てることを伝えてもくれた。
 そして、コロナ禍で公演を実現させた「つくる・みらいの会」の決断に賛同して観劇をした人も多かったのではないだろうか。目に見えない「罠」を感じ取ってほしい、『刻の罠』という舞台で、今みんなとシェアしたいという熱い想いで繋がったメンバーたちが一丸となって、念入りな準備をして公演を実行したことこそが本物の気づきなのではないかと思う。さらに公演の後の交流会(9月5日)で、は「親とか、大人とか子どもとかではなく、一人一人が自分の責任を果たす。本気の大人の中で、子どもは本気でやりたいと思うようになる。表現は自由ですし、誰でもいいたいことが言えるようになる。」と末永桂子さん。熱くて濃い時を持てたことで「よし!今を生きよう!」と思えた夏だった。

 私たちは今こそしっかり目を見開いて、国の政治を見つめ直す時なのかもしれません。真実を見せられぬまま、罠にはまってはいないか。「罠」という漢字のなりたちを知った今、私たちは決して「もの見えぬ民」ではないということを、改めて目を見開いて、自覚すべきかもしれませんね。

太鼓と芝居のたまっこ座
1985年創立。魂を揺さぶりぐんぐんと力の湧いてくる作品創りを目指し、子どもからお年寄りまで楽しめる和太鼓やお芝居の舞台として、文化庁の巡回事業を始め、ヨーロッパや北米、アジアの国々でも「時代や民族の壁を越える芸術」として高い評価を得ている。

つくる・みらいの会
「子ども達の未来を守りたい」「政治は暮らし」をスローガンに、自分たちが動くことが大事だと気づいた女性が中心に活動している市民団体。2016年から活動。

積極的に感受するとは:時には、社会に役に立たねばという意識から解き放たれて、鳥を数えた1日や、星が見えたことが最高だねと思えることに価値がある。みんな、この世を感受し存在足らしめる仲間です。あなたには、今日、話しかける木はありますか?(ドリアン助川さんの言葉より)