今日も氷点下。車内の紙コップの水は、吸い殻と一緒に底まで凍っている。震災から2度目の新年を仮設住宅で迎えた人は、7785人。人口比で各務原市に置き換えると約1万7千人になる。夫婦や同性の親子2人なら、台所も浴場も含めて四畳半二間での生活。水道管の凍結、窓の結露。日々の不便さに加え、気持ちを萎えさせるのが将来への不安だ。 今なお仮設にいる人の多くは、災害公営住宅への移住を望む。市は被災世帯の意向を聞き、19カ所に2千戸の公営住宅を建てることにした。ただ、最も早い入居ですら2年後の2015年1月。遅いと3年後の2016年3月だ。また、国が定める「収入ゼロ」世帯でも家賃を払わねばならず、入居6年目からは値上がりする。電気料金と消費税率の引き上げが、生活苦に追い打ちをかける。 「切羽詰まってきていますよ」。工藤新一さん(90)は、妻の喜美子さん(86)と仮設暮らし。津波で骨董屋兼住宅を流され、財産と呼べる物はなくなった。貯金を取り崩す生活。介護保険料や水道料金の督促状が届く。「家賃なんてとても……」。 こういう人のために生活保護があるのではと思って調べると、違っていた。全国的に受給件数が増えるなか、被災地では逆に減る傾向にある。気仙沼市の場合、震災前の2011年2月、378世帯483人だったのが、2012年11月には248世帯313人。義援金や被災者生活再建支援金などが入り、「自活できる」と判断されると支給が止められるのだ。生活保護は地域によって金額が異なる。過疎地である気仙沼市は6段階の下から2番目。元々、そう高くはないのだが。 住宅に限らない。防潮堤建設や災害廃棄物処理など、復興は本当にこれからだ。市は最近、ある区画整理事業の完成を2015年度から2017年度に修正した。見通しの甘さもあるが、工事が集中して資材や要員の確保が難しいのだ。漁港の岸壁再建に携わるサイトウさんは、青森市出身。行きつけの居酒屋ではいつも明るいけれど、一度、真顔で言った。「潮が満ちてくれば作業できないことを、机の人間は分かっていない」。こういう面もある。 この居酒屋は、たま?に持ち込みを許す。常連夫婦が地元産の松茸を客に振る舞った。流通はしておらず、貰い物だ。「菌類は(セシウムで)危ねんでねえの」と誰かが言うと、「いいのっさ。もう年だっけ」と数人がガブリ。「んだ」と私も。 「食の安全」を気にしながら赴任し、まだ1年たっていない。
役新聞記者(宮城県・気仙沼在住)
私のいる事務所兼住居は、1階の浸水のみですみましたが、3軒隣の警察署も、少し離れた小学校も解体です。節電といわずとも、家の周辺は真っ暗。人がいないから…街灯もいらないわけで……これから、気仙沼で自分の見たまま感じたままをお届けします。