最初は、家でベッドから座っていた姿勢からすべりおちて大腿骨の骨折で入院した。手術後何日もたって、意識がなくなりICUに運ばれた。バイタルがかなり安定してるためにうちらの病棟に。でも、両足はもうすでに脈が無く、かすかな血流によって保たれている状態だった。血管の専門医も現時点での外科的な処置は、患者の生命の危険がともなうという判断で処置はなされず。そのかわりに薬の投与で塞栓や血栓が肺や脳をつまらせないようにする処置がとられた。意識もないため、食事は鼻からの経管栄養で投与されてた。
両腕は浮腫でむくみ、血液検査や点滴針をさすのが難しいために何度も針でさされてあざだらけだった。その痛々しい腕からは体液が常にしみ出る状態だった。両足は壊死さえ起こしてないものの氷のように冷たく紫がかった色をしていた。
まったく意識がない、つねってもゆすっても反応しない。瞳孔がおっきくなって動かないようにみえた。どうしちゃったんだ、何が起こったんだ、脳が機能してないのか…。
そんな状態でも、血液検査やものすごい量の薬の投与、4時間おきの鼻から胃にはいるチューブでの水分補給など、もう拷問に思えるくらいいろんなことをしなきゃいけなかった。この人は意識がない状態で、こういうことを望んでいるんだろうか。元のように意識が戻って、おかゆを食べたり家族とわずかでも会話ができるようになるんだろうか。
医者たちは誰もが口をそろえて早急に緩和ケアかホスピスに切り替えるといった。
前日、家族のヘルスケアプロキシ―(本人が判断できない状態のときに本人に代わってすべての医療ケアにかかわる決定をする人)と家族を交えてミーティングをした際に、DNR/DNI(心肺停止の時に挿管を含む蘇生をしないこと)が決まった。でも、緩和ケアのみにするか、ホスピスに切り替えるまでは、やはり延命をするために心肺蘇生以外のことは全部なされる。
それは、たぶん本人にとっても家族にとってもケアする側にとっても苦痛だと思う。
3日後には、経管栄養も外れて薬の数も最小限になってた。
ところが、家族がやってきて、「なんで食べ物を与えない?アイスクリームでもゼリーでもいいから食べさせろ。このまま餓死させたくない、点滴も辞めて、いったいどうゆうつもりだ!」と言ってきた。しかし、本人は意識がなく飲み込めないから食べさせることはできない。今の状態で無理やり口に何か入れたら、誤嚥性の肺炎になることは間違いない。
ケースバイケースだけど、基本的に緩和ケアやホスピスは延命につながることはしない。でも中国の人達は、文化的に食に対する意識がかなり強いといつも感じる。
ホスピス病棟でも、食べるたびに吐いて、食べるたびにおなかの張りを訴える中国人の患者さんに、それでも家族はひたすらおかゆを食べさせていた。吐く=体が受け付けない、意識がない=食べられない、ということではないのか。点滴も体が受け付けなければ、すぐに肺に影響がでて浮腫ができてくる。それでも、ちょっとでもいいから点滴で水分補給を!という家族は多い。前はそれもわかるような気がしてたけど…。
でも、最近は乾いていくという過程も死にゆくことのなかで自然なことなのではないかと思う。年をとるほど、肌はハリがなくなり、だんだん軽くなっていくのは、自然なことだと思う。軽い方が骨や関節に負担が少なくなるしね。死が近づいているとき、体が乾いていくのは、やっぱり自然なことだと思う。
人は何も食べたり飲んだりできなければ、死ぬ。それはとても自然なこと。人間に限らず、どんな生き物でもそう。生き続けるということは簡単なことではない。どんな環境にすむ生き物でも自分の命を保持するための栄養補給と水分補給ができなくなったら死ぬ。自分で生きる力が無くなった時、命は死ぬ。
それが医療の進歩のおかげで、昔なら助からない命も助かるようになってきた。食べるという行為なしに、胃や血管に直接、生命が維持できる栄養を届けることができるようになった。
これは奇跡のようであり、奇妙な現実でもあるとうちは思う。
森や草原や砂漠に住む哺乳類は、生まれた瞬間に母親の母乳を飲める力がなければ、死ぬ。でも人間の赤ちゃんは未熟児で生まれて母親のお乳を飲む力がなくても、みんながみんな死ぬわけではない。とくに先進国やNICUや他医療が整っていればいるほど生存率は高くなる。それは素晴らしいこと。ただそれがどんな命にも使われるべきかというと、そうでもないと思う。赤ちゃんは、その時期をのりこえるとたいてい自発呼吸、自分でお乳を飲んだり、自分で生命を維持していけるようになる。
それが、自分自身で生命を維持できる力の回復が見込めない人や、死が近い人に使われると、本人にとっても家族にとっても辛い時期が続く。何のための延命で、何のための栄養で、何のための医療なのか。本人のためなのか、家族のためなのか、そこにエゴはないのか。
命は死ぬ運命と一緒に誕生する。生まれれば死ぬ。そこに永遠はないし、きまった時間もない。
どんなふうに生きたいか、どんなふうに逝きたいか、どんなふうに生きてほしいか、逝ってほしいか、不吉とか暗いとかって毛嫌いせずに、普段から話しておくのはすごい大事だと思う。