「自閉症でよかったと思うことは何?」と質問されたら「自然と一体化した感覚になること」と答えるでしょう。人であることを忘れられる、その時間は何もかもが遠い過去のように思え、幸せで胸が一杯になります。人と心を通わせることが苦手でも、この世に生まれてよかったと思えるできごとはあります。
「自閉症が30歳の僕に教えてくれたこと」東田 直樹:著
この言葉を見た時に強い安堵感を覚えた。親としては誠に身勝手なセリフではあるが、そう感じてしまったことに間違いはなかった。“息子の言葉を聞いた”と勘違いしたとも言えるが、そうなのかもしれないと私自身が想像を巡らしていた内容だった。そうであったら良かったと思いたかったのかもしれない。
息子との暮らしの中には、悩ましいことや怒りに似た悲しみは私の日常に溢れていた。なぜ悩ましいのか?悲しいのか?その心を持っているのは私自身であって“彼”の中には全くその要因とするものはない。私の奥底にあるドロドロしたものを喚起するそれらの“憂い”は、私が根本的に抱えているものだと見つめざるを得なく、抑えつけたり、蓋をしてやり過ごすには息子という存在はあまりにも大きかった。
今を生きる力。昨日を後悔せず、明日を憂うこともなく淡々と今を生きるように見えた息子の一面は私の憧れる気持ちも喚起していた。どうしたら自然や大いなる宇宙の流れに乗って何にも囚われず“生”を全うできるのか。“自然と一体化”しているように見えた息子の生きる姿は大いなる目指したい姿でもあった。
日常のほとんどの時間はいわゆる“大変なこと”に費やされ、いつまでコレは続くのか?と私は思っていた。いや、息子もそんな苛立ちは、通じない私に対して感じていたのだと想像している。そんな中で時折り“ふと”彼が見せる表情や行為からは、どこから司令が来ているのだろうかと思うほど、美しさや滑らかさを纏う“自然と一体化”したかのような姿を見ることがあった。
思うようにならない言葉と身体、混乱する思考を悩ましくも愛でながら生きている自閉症の方々の姿は東田さんの著書から想像することが出来る。著書を読んで、息子に対してああすれば良かった、こうすれば良かったなどと戯言を今更ながら思うのだが、彼の人生の最後の半年をぶつかり合いながらも過ごせたことは私の財産となっている。
自閉症とは自らの世界に閉じこもっているような言葉ではあるが、“こうあらねば“とか“やりたいことはなんなのか”という“囚われ”から自由に開いた存在という一面も待ち合わせている気がしている。それに憧れるのは当然であるし、“自然と一体化”というものを少しでも味わうことができないものかと目指さないように目指すのもオツなものである。
自由というのは
いつかは本当の自由を手に入れたいと願っている人も多いのではないでしょうか。けれど簡単にそれが叶えられるわけではありません。今、何をしたいのか、自分の欲に縛られているうちは不自由なままです。
自由というのは、したいことをすることではなく、したいことがなくなることなのかもしれません。
「自閉症が30歳の僕に教えてくれたこと」東田 直樹:著
「しないのっ!(なんもしなくていいんじゃね)」と息子の声が聞こえてくるようだ。
MASA:若者をはじめ、障がい者も一緒になって、ごちゃまぜイノベーションを目指している。知的障がいのある息子は享年24歳で2021年2月27日に旅立った。関市在住。