インクルーシブ(inclusive)という言葉を聞いたことがありますか。
「包括的な、包み込む」という意味の英語です。ちょっと分かりづらいと思うので、反対の意味の言葉から考えてみましょう。
インクルーシブの対義語はエクスクルーシブ(exclusive)で、「排他的な、締め出す」と訳されます。ですので、インクルーシブとは『排除しない』ということになります。
そこから、性別や国籍、宗教の違いや障害の有無などにかかわらず、すべての人が互いを認め合い、排除せずに共生する社会を『インクルーシブ社会』、また誰も排除せずすべての人が学べる学校教育を『インクルーシブ教育』といいます。
2006年に開校した大阪市立大空小学校では、初代校長を務めた木村泰子氏と教職員らが「すべての子どもの学習権を保障する学校を作る」という理念を掲げ、特別支援の対象となる子どもを含むすべての子どもたちが同じ場で学び、育ち合える学校を作ってきました。木村氏は著書の中でこのように語っています。
“最近の学校はとても頑丈な「スーツケース」のように見えます。長い棒のように尖った子は、端っこをポキンと折らないと入れられない。まん丸の大きなボールのような子だと、ふたが閉まらないからダメ。そんな子たちは、スーツケースに入れて運べません。
ところが、「風呂敷」だったらどうでしょう。大風呂敷を広げておけば、棒の端っこが出ていても、みんなでなんとか担げます。ボールもなんとか包めます。包み方はアバウトで、マニュアルがあるわけでもありません”
ー「みんなの学校」が教えてくれたことー
大空小学校に校則はなく、「自分がされていやなことは人にしない。言わない」という『たった一つの約束』があるだけだそうです。大きな理想とそれを実現するためのシンプルな約束、それが大空小学校が風呂敷であれた理由であり、インクルーシブ社会やインクルーシブ教育を実現するために必要なことなのではないか、と私は考えています。
今の学校には「ブラック校則」といわれるように、いつからあるのか何のためにあるのかわからないようなきまりごとがたくさんあり、多くの子どもたちにとって居づらい場になっているように思います。また、授業は同じ内容を同じように(1時間机に向かって座り、先生の話を聞き、黒板の文字を書き写し)学ぶことが求められ、こういった学びが苦手な子には別の場が設けられています。
校則も授業スタイルも、より良い学校・より良い学びを追求してきた結果なのかもしれませんが、それが排除を産んできたともいえるのではないでしょうか。
一人ひとりの個人に排除しようという意識がなくても、社会や学校がその集団全体の利益や効率を最優先する時、排除は容易に起こってしまうものです。
技術が進み、情報に溢れている現代において、私たちはそれについていくのが必死で余裕のない生活を送ってはいないでしょうか。一人ひとりの心から寛容さが失われると、排除は容易に起こってしまうものです。
インクルーシブ社会やインクルーシブ教育は実現が難しい理想かもしれませんが、その理想を共有し、隣の人や目の前の人を大切にするそんなシンプルな約束を一人一人が守っていくことができれば、案外実現できるのかもしれません。