vol.179 ぎむきょーるーむ コミュ力

小学校で 小学校教員 大和俊広

外国語活動が入って現場はやや混乱
コミュニケーション能力の育成がさかんにいわれるようになったきっかけは2011年の教育指導要綱改訂から。
●子どもをとりまく社会構造の変化が、子どもたちに影響を及ぼし、近年の若者は良好な人間関係の形成やコミュニケーションに課題がある。●日本経済団体連合会の調査でも、企業が学生を採用するにあたって重視する能力一位であり、グローバル化に対応した能力の育成を求める社会的要請が高まっている。
というようなことが能力養成の根拠だったと理解しています。
まず、小学校の現場では、外国語活動が入ったことが、大きな変化でした。「なーんで、英語を学ぶ必要性のない小学生が英語でコミュニケーション?」とか、「まずは生活言語である日本語では?」と考える教員たちを混乱(?)させながら、「とりあえずやるしかないか〜!」と半ばあきらめ気味に、でもそこそこ真面目にとりくんできたように思います。

関係性に支えられた「生活」を積み重ねることで

以前、脳性麻痺の友だちが、「知的障害者はコミュニケーション能力が低いといわれるが、そんなことはない。まわりの人間の知的障害者に対するコミュニケーションがないだけだ」といっていたことが印象的です。
かつて放課後の外遊びやコミュニティが担っていた、コミュニケーション能力育成の役割を学校が担うのならば、「授業」としてではなくて「スキマや遊び」の時間として、子どもたちを集団で遊ばせればよいなどと、不適に思ってしまいます。

やまと・としひろ  神奈川県公立小学校教員
全国学校の「遊び」と「スキマ」研究所所長として、「多様」で「寛容」で「楽しい」学校を目指す。10才と6才の二児の父。

中学校で  中学校教員 伊藤育雄

形だけや即席の指導では悪循環
 「アクティブ・ラーニング」とか「ユニバーサルデザイン化」とか、最近やたらに、カタカナ文字が教育現場に氾濫している。「コミュニケーション」もカタカナだが…
コミュニケーションとは、語源がラテン語の「コミュナス」(共同の・共有の)で、「コミュニティー」も同じ語源のようだ。学校という「コミュニティー」(共同社会)で「コミュニケーション」(たがいに意思・感情・思考を伝達し合うこと)がおこなわれることはあたりまえのことである。教科教育でもあつかわれるが、コミュニケーションは学校でのすべての活動でおこなわれていることである。家庭でも、コミュニケーションは日常的に行われている。
学校生活や家庭生活が充実したものであれば、自分の意思や感情を規制することなく発信しようとする意欲がわき出し、コミュニケーションは活発になる。そんななか、コミュニケーション技術の指導は各場面で必要最低限のものでよい。そして、SNSではなく、直接コミュニケーションをすることが、中学生のコミュニケーション能力アップにとって必要なことではないか。

いとう・いくお 愛知県公立中学校教員 2016年度からはハーフタイムの再任用で中学生に週3日社会科を、非常勤で大学生に週1日「学級担任の心得」を担当。

 

上手に話す?自己主張できる?相手を思いやる?

対談 劇作家・演出家 平田オリザ×小学校教員 岡崎 勝

コミュニケーション教育というけれど

平田:イギリスとかドイツの社会では、自己主張ができることは大人になってからも必要とされる能力ですが、日本では必ずしもそうではありません。日本で子どもに自己主張だけを教育したところで、トラブルが起こったとき先生に相談に行けば、「そこは空気読めよ」というダブルバインド(二重拘束)が待っている。子どもは「自分の意見をいうように言われたのに・・・」と混乱しますがこれは、笑い話ではなく、あたりまえにいま教室で怒っていることです。

いろんな意見が許される場をつくる

岡崎:子どものコミュニケーションスキルは一人ひとり当然ちがいますが、ディベートがすごくうまい子たちは、学校のなかの空気を読むのが暗黙の規範のようになっていて、それにのっかっているだけのようにも見えます。
平田:これまでの日本の教育は「確実な知識や情報を得る」ことがめあてになっていましたが、これからは「バラバラで多様な意見が出るのがいい」というのをひとつの重要なめあてにして、さらに次の段階で「そのなかで合意形成をとる」ことをしていく。その二段階を区別しておこなうことが大事です。

子どもが不条理と向き合う機会を

平田:わたしは昭和37年生まれで、おそらく日本民族が始めて食うに困らずに子育てできるようになった最初の世代です。物がないときはがまんさせるのは簡単でしたが、そうではない時代に、しかも宗教心の薄い日本社会での子育ては「しつけ」の面でも難しい。演劇的なところでいえば、子どもにとっての「暗闇」みたいなものがなくなってしまったと感じています。家の中でのかくれるところだったり、ヒミツをつくれるようなところだったり。今の子どもたちが実生活で経験できない事柄をシュミレーションする、つまり「人生の不条理に向き合わせる」ことが演劇教育の最大の役割だと思っています。

生活のなかに演劇をとり入れる

岡崎:ボクは『学校は生活の場』という意識で、朝暗い顔をしている子がいたら、「どうしたん だ?じゃぁ、先生がきみの役やるから、きみがお母さんになって、お母さんがいっていたことをいってみるか」なんていって、5分くらいの短い時間で生活劇のようなことをやっていたんですが、それをすることで子どもたちが役割意識をもって、自分がやったことを対象化していけるというのはありました。
平田:基本的に人間には演じることに対する原理的欲求のようなものがあって、自分ではない他者を演じることに喜びのようなものを感じるんですね。変身願望のようなものもあるから、さきほどおっしゃったロールプレイ(役割演劇)で相手と入れ替わってみるのはいいと思います。

「対話」に必要な他者性

岡崎:役割を演じる、立場を入れかえるというのはある面で他者意識が必要ですが、今学校や家庭で大人は子どもに対して「相手の立場に立って考えなさい」「思いやりをもちもちなさい」と口酸っぱくしていっています。
平田:いちばん象徴的なのはいじめのロールプレイです、そもそも日本のいじめの深刻なところは、いじめている側にいじめているという意識がないところなんです。『相手の立場に立ちなさい』と教えられると、まじめな子ほど相手の気持ちがわからないのはダメなことだと思ってしまうようですが、同一化を強いるというのは、すごく危険なことだと思います。
岡崎:教室は関係の場だから、おたがいの気持ちなんてそう簡単に理解できないんだけれど、そういう人間同士がどうやってその空間の中で距離を取りながら、生活するかが大事なんじゃないかと思う。
平田:コミュニケーションを考えるとき、まず「会話」と「対話」を区別することが大事です。「会話」は親しい人同士のおしゃべり。「対話」は異なる価値観をもった人とのすりあわせや情報の交換といったことです。対話をするためには、どうしても他者性が必要ですが、日本の学校の教室は非常に同調圧力が強いので他者がいない。価値観をすりあわせるような議論が必要な時には対話力が一番重要ですが、それを教える授業は、国語教育にも英語教育にもありません。特に日本語には、この「対話」という概念が薄いという問題もあります。ですから「対話」を教えるためには、教室の中に他者性をもってこなければいけない。そこで、演劇というフィクションの力が大事だと、わたしは思うんですね。





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