復興と地方創生
変わらぬ国の押しつけ
ある土地は水産庁のお金で水産加工団地を造る、近くの地域は国土交通省の区画整理事業で住宅地にする。どちらも津波に備えて高く土を盛る。でも、その間の地区は何の予算もつかないから窪地のまま。大げさに言えば、コンビニと駐車場の間に用水路があるようなもの。来たかったら、飛び越えておいで。それが復興工事だ。
少し改善したとはいえ、5省40事業にしか使えない復興予算が足かせなのだ。気仙沼市はまだしも、壊滅した街を一から造り直さないといけない南三陸町や岩手県の陸前高田市、大槌町に「40事業」なるものをあてはめる意味が分からない。
前からそう思っていたところへ、今度は地方創生ときた。どういう地域や暮らしでありたいかは、住民主体で決めないといけないのに、なぜか、政府が自治体に「総合戦略」を作らせ、マニュアルまで用意している。多くの自治体と経済団体が同時期に「プレミアム商品券」を売り始めたのは、なぜか。創生とは「創造」、つまり独自の新たな取り組みを評価するはずだと普通は考えるが、同じことをやらせたいようだ。
最近こんな話を聞いた。国と自治体の関係について、最初は「池の鯉」。国が手を叩くと寄ってきて餌(補助金)を奪い合う。食べ過ぎて借金に苦しむ所が出て来たので、努力した自治体にご褒美をあげる「イルカショー」に切り替えた。イルカは、お金欲しさにやらなくてもいいジャンプを繰り返す。最終形が「サル軍団」。優秀な自治体が他の自治体を引っ張る。でも、国(人間)は冷ややかにに見ている。
この話を私に伝えたのは仙台の上司で、元々は京都府知事から直接聞いたらしい。孫引きの全責任は私にある。それにしても、ここまで自虐というか、地方の自治体や人間を馬鹿にしたたとえはあるまい。
結局、復興も創生も、国が用意したメニューからしか選べない。専門家たちが話し合った国の復興構想会議は次のようにうたっている。「被災地の広域性・多様性を踏まえつつ、地域・コミュニティー主体の復興を基本とする。国は、復興の全体方針と制度設計によってそれを支える」。見事に100%逆のことをやれるというのは、官僚というのは、やはり優秀なんだろう。
ただ、首長たちにも言いたい。元々の過疎地が震災で疲弊したのは分かる。もう少し踏ん張れないのか。住基ネットを拒否した(今は接続)福島県の矢祭町長。国が進める市町村合併の「ご褒美」であるお金を借りなかった本宮市長。少しは見習って欲しい。国の金=国民の金を取り合う時代も、自分だけええ格好する時期もとっくに終わっている。
2012年4月に岐阜から赴任しました。がれきの片付けは震災後3年で終わり、高台移転先の造成や水産加工会社の再建なども少しずつ進んでいます。それでも「元の生活」に戻ることは決してありません。現地で見聞きし、思ったことをご報告いたします。 現役新聞記者(宮城県・気仙沼在住)